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2009年1月7日水曜日

少年期の桂文楽

 益義7歳の年、父益功が赴任先の台湾でマラリアに罹って死んだ。
 この時から並河家の家運は傾き始める。根岸七不思議のうちに数えられた立派な門を持つ屋敷も、その半分を人に貸すことになった。
 益義は尋常小学校を3年で中退。そして、11歳で奉公にやられることになるのであるが、この体験は彼に大きな傷を残した。
 その日、益義少年は家の中で友だちを集めて戦ごっこに興じていた。日の暮れるのも忘れ、大暴れをしているところに、母いくが帰宅する。家運の衰微に鬱屈していた彼女は、ここで感情を爆発させる。1時間以上も益義を叱りつけ、母子ともども号泣しているところへ見知らぬ小父さんが訪ねてくる。いくは益義少年にこう言ったのである。
 「このひとに付いてお行き。お前は奉公に出るんだよ。」
 何が何だか分からないまま、益義は横浜まで連れて行かれ、多勢商店という薄荷問屋の丁稚となる。彼は三日三晩泣き通したという。
 多分当時としては珍しくないことだったろう。だが、幼い子どもにこのような体験は、今も昔もきついことには変わりない。益義少年の心には「捨てられた」という感覚が深く刻みつけられにちがいない。
 その後、天性の明るさと人なつっこさで「おしゃべり小僧」の異名を取り、益義は主人やお得意様に可愛がられるようになる。しかし、そこには「ここで見捨てられたら最後だ」という必死の思いはうかがえないだろうか。可愛がられることが、益義にとって唯一の生きる手段ではなかったか。
 後年、彼が三代目三遊亭圓馬にどんなに厳しくされてもすがりついていく様、五代目柳亭左楽に付き従う様の源流はここにあるのではないか。
 また、この母親に捨てられたという体験は、母性への思慕という形をとる。文楽は生涯5回の結婚をしているが、そのうちの初めの方の3回はどれも5、6歳年上の相手だった。

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