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2009年10月25日日曜日

桂文楽 文楽と志ん生①

文楽が睦四天王として売れに売れていた頃、後年昭和落語の最高峰として並び称された五代目志ん生はどん底にいた。
文楽襲名の翌年の大正10年、志ん生も金原亭馬きんで真打ちに昇進、その翌年には結婚もした。大正12年には古今亭志ん馬に改名する。ところが、生来のずぼらがたたる。不義理を重ね、翌年には所属していた落語協会の大幹部三升家小勝に逆らい協会にいられなくなって、講釈師に転向してしまう。
それもやがては行き詰まる。大正15年4月古今亭馬生を名乗り、落語家に復帰する。ただ、この名前には問題があった。金原亭馬生という名跡があり、それが彼の師匠であった鶴本の志ん生が売り出した名前だったからだ。鶴本はその年の1月に死んでおり、師匠に遠慮して亭号を古今亭にしたとはいっても、周囲からの非難は大きかった。やむなく古今亭ぎん馬に改名する。
そんな状態では寄席も快く彼を迎えてくれるはずもない。方々で爪弾きにされ、どうしようもなくなって五代目左楽の睦会にすがった。前座でもいいから入れて欲しいと懇願したらしい。が、左楽はそれをはねつけた。
そして柳家三語楼門下で柳家東三楼となるのだが、そこで後に志ん生の才能が開花することになる。
文楽と志ん生にはいくつかの接点がある。
文楽の最初の師匠初代小南は、志ん生の最初の師匠二代目小圓朝が頭取をしていた三遊派に所属していた。志ん生入門の年に文楽は二つ目に昇進。翌年文楽が旅に出るまで、同じ寄席に出演した可能性もある。
前にも書いたように、文楽は志ん生の師匠鶴本の志ん生を尊敬し、可愛がってもらっていた。落語家復帰後、志ん生がすがったのは、文楽の師匠五代目左楽であった。
文楽と志ん生が親しくなったのは、大正5年、文楽が旅から東京に帰って以降と思われる。
多分、大正から昭和にかけての頃だと思うが、寄席を干されていた志ん生に、文楽が高座を譲ったという話がある。
その時、文楽は仲トリだったが、「孝ちゃん、あなたの『鰻の幇間』を、お席亭やお客に聴かせてやんなさい」と言い、志ん生を自分の出番に出演させ、自らはマスクをかけて客席から観ていた。
その時の高座を文楽は、後に弟子に「それがねえ、よ過ぎてかえってお客にはまらなかったんだよ」と語っている。野幇間のうらぶれた雰囲気が真に迫りすぎ、笑いを誘えなかったらしい。
昭和5年頃には、志ん生が次女の喜美子を5円で文楽に養女にやろうとする。この時には、志ん生が喜美子を黒門町の文楽の元に連れて行こうとする途中、喜美子が号泣し断念することになった。
ここまで両者の差は歴然としていた。二人が同じ土俵に立つのは昭和9年、柏枝、権太楼、圓蔵(六代目圓生)とともに「若手三十分会」というのを立ち上げた時であった。この年、志ん生は七代目金原亭馬生を襲名し、ようやく世に認められるようになる。時に志ん生44歳の秋であった。

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