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2023年2月6日月曜日

『八代目正蔵戦中日記』

彦六で死んだ八代目林家正蔵の、昭和16年(1941年)12月から昭和20年(1945年)8月までの日記である。(当時、彼は五代目蝶花楼馬楽を名乗っていたが、ここでは正蔵と呼んでおく)私は平成26年の青蛙房版を持っているが、この度、中公文庫で文庫化されたという。いい機会だと思い、再読してみた。

 

太平洋戦争中の庶民の暮らしや落語界の動向を教えてくれる第一級の資料なのは間違いないが、読めば読むほど立ち上がってくるのは、強烈な個性を持つ八代目林家正蔵という落語家、その人の姿である。

 

日記というのは、極めて意識的な文章である。書かなければそれで済む。日記を書く人は、日記を書く必要があるから日記を書くのである。

『吉原花魁日記』の森光子は、文学少女である自分が、苦界に身を沈め、体を売って暮らすという地獄のような日々の中で、正気を保つために日記を綴った。

永井荷風の『断腸亭日乗』(「日乗」とは日記のことである)は、読者を意識して書かれており、その意味では文学作品と呼ぶべきものだった。庄野潤三の後期の連作も、日記のような小説である。彼らにとって日々の生活を書くことは、文学的行為そのものであった。

 

では、正蔵にとっての日記とは何だったのか。

正蔵は偉そうな奴が嫌いで、セコく立ち回る奴が嫌いだ。しかし、そんな人間にいちいち腹を立て摩擦を引き起こす自分もよしとしない。正蔵には一日のうちに一度、自分を振り返って客体化させ、見つめ直す時間が必要だったのだろう。

自分の行動や周囲の人々の言動、寄席のワリ、収入も自分への評価として克明に記録する。それに対して揺れ動く自分の感情もつぶさに書き留める。その上で自分を戒める。

「平常心」という言葉が多用されるのも、自分への扱いや下される評価に揺れ動く心への戒めなのだと思う。つまり、正蔵にとって日記とは、自分を映す鏡であり、自分を磨く砥石だったのではないか。

そう思えば「便所の汲み取り」の記事が繰り返されるのも納得がいく。あれはまさに「聖なる行為」なのだ。

 

八代目林家正蔵といえば、不遇のイメージがつきまとう。しかし、この日記を読めば、この時期、彼がまずまず売れていて、まずまず評価されていたことが分かる。昭和16年に落語協会幹部に就任、寄席でもトリをとり、慰問や巡業にも頻繁にお呼びがかかり、ラジオにも出演していた(前書きでも、娘の藤沢多加子が「この時代の日記は、売れ始めた頃だった」と言っている)。

当時の落語協会での正蔵の位置が分かる記述があるので以下に引用する。

 

 右女助君大幹部に成り、上のトリ。馬風。さん馬も共に給金三〇になり、柳枝三三、円生と私三五、円歌四〇、志ん生四五、あと据え置きと改正される。(昭和1931日)

 

当時の落語協会は、講談の一龍齋貞山が会長。落語家は、四代目柳家小さん、八代目桂文治、八代目桂文楽、それに続くのがここに出てくる人たちだ。文楽の次が五代目古今亭志ん生。その次に二代目三遊亭円歌。六代目三遊亭圓生と五代目蝶花楼馬楽(八代目林家正蔵)が同格で続く。そして前年「柳枝」を襲名した八代目春風亭柳枝。この年には桂右女助(六代目三升家小勝)、鈴々舎馬風、翁家さん馬(九代目桂文治)が新たに幹部に加わる。正蔵は協会において本当のトップとは言えないまでも、まあ順当な位置にいたのではないかと思う。

 

もちろん、正蔵といえども時代の渦には巻き込まれざるを得ない。次第に戦局は悪化し、空襲の記述が増える。警報続きで寄席には客が来ない。その中で、彼は警防団員としての務めを忠実に果たし、落語協会幹部として奔走する。娘や息子たちのために心を砕く。正蔵は国が滅びの道をひた走る中にあって、正面から現実に立ち向かっている。

だからといって、聖人君子でもなければ、石部金吉金右衛門のような四角四面の堅物だったわけでもない。配給や貰い物の酒に酔い、愛人のもとに通う。「少し風邪引きの気味が。房事過度も手伝ふか。」(昭和19322日)などという、どきっとするようなことも書いている。

再読して、改めて思う。八代目林家正蔵という人は何と魅力的な人物なのだろう(彼が在日コリアンに対し、当時一般的だった「鮮人」という蔑称を用いず「半島の人」と呼んでいることも付記しておく)。

 

後書きによると、編者は正蔵の遺族から数十冊に及ぶ日記を預かったという。そこから、特に太平洋戦争開戦から終戦にかけての部分にスポットを当てたのが本書である。寄席演芸、歌舞伎、相撲などを含めた芸能全般及びそれに携わる人々について、当時の世相や庶民の暮らしについて、様々に読み取ることができる優れたテクストだ。それを世に出してくれた編者には感謝しかない。

でも、本書で公表されたのは5冊分(〈本文凡例〉による)に過ぎない。預かったのが「数十冊に及ぶ日記」というからには、その大部分が未発表のままだ(ああもったいない)。

『戦中日記』だけで満足せず、どんどん続編を出してほしいなあ。



2 件のコメント:

quinquin さんのコメント...

早速の書評、興味深く拝見しました。
ご指摘の通り、馬楽師匠、結構頑張っているじゃないか、という感想をもちました。もちろん今よりも市場規模自体が広かったのでしょうが、考えて見えば二次落語研究会の会員でもあり、東宝も専属の時期もあったのでは、と思うので、一定の評価があったのでしょう。そういえば亡くなった時の「落語」誌の特集で、戦前からの贔屓である北九州の会社社長が追悼文を寄せていたのを覚えています。そういう後援者もいたのでしょうね。
「半島の青少年」は私も気づきました。いささかも差別的な表現がなかったことはさすが正蔵師です。もちろん世に出ていない日記部分は分かりませんが。細かく読んでいくとまだまだ気づきがありそうです。ぜひ続編をお願いします。

ところで、空襲下でも人々は寄席に行っていたのですね。小山観翁さんも、空襲におびえつつ歌舞伎を見ていた、ということを書かれていますが、どんな時であっても芸能や芸術は不要なものではない、と確信します。却って今の風潮の方が酷いかもしれません(特に大阪の某政党の政策などを見ますと)。

densuke さんのコメント...

コメントありがとうございます。

《どんな時であっても芸能や芸術は不要なものではない。》
本当にそう思います。大阪の某政党の「選択と集中」なんか、文化、芸術、芸能に対する敬意が、これっぽっちもない。金を生まぬものなど邪魔でしかないといわんばかりです。憤りすら覚えます。

《ぜひ続編をお願いします。》
正岡容や黒門町とのやり取りなどをネタにしようかな、と思っています。

正蔵日記、戦後のもあるとすれば、小さん襲名騒動の辺りも読んでみたいですねえ。