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2010年3月9日火曜日

文楽と金馬

昭和15年の東京落語家番付が手元にある。
検査役に四代目小さん、八代目文治が座り、堂々東の大関を張るのは六代目春風亭柳橋。西の大関には三代目三遊亭金馬と八代目桂文楽が並ぶ。(志ん生は西の小結、圓生は東の前頭二枚目だった。)
戦前の最大のスターは、春風亭柳橋だった。しかし、一方の雄として、三代目金馬を挙げなくてはなるまい。
三代目三遊亭金馬。明治27年生まれ(文楽より2歳年下)。大正元年、講釈師として芸界に入るが、翌年初代三遊亭圓歌に入門、落語家に転向する。三代目三遊亭圓馬に傾倒し、圓馬の橋本川柳時代、師匠圓歌の世話を弟弟子の歌寿美(二代目円歌)に任せ、旅巡業に従う。大正9年、圓洲で真打。大正15年に三代目金馬を襲名する。昭和初期、『居酒屋』のレコードが売れに売れ、改作ものも次々に世に出した。私の父の年代は、落語家といえば柳橋、金馬だったという。
文楽と金馬は、ともに三代目圓馬のもとで修業し、ともに落語家としての才能を開花させた。文楽は圓馬の繊細さを、金馬は豪放さを受け継いだと言われた。
正岡容が二人を評してこう書いている。
「そのきびしく掘り下げてゐる『面』の方が文樂へやや神經質につたはつてゐるとおもふ。此は團十郎の精神が、蒼白い近代調となつて吉右衛門の上に垂れているごときであらうか。豪放の點は、むしろ金馬にのこつてゐる。しかし、金馬には、俗氣を離れたところがない。云ひ換えると、いいイミの『バカ』なところがない。もつとあの人の全人格が簡單に、文化的なつてしまつてゐる。それが圓馬までゆけてゐない所以とおもふ。」―「三遊亭圓馬研究」より(『随筆寄席囃子』昭和42年刊)
これは名文である。その話芸を高く評価されながら、「噺家魚見立て」で「金馬、秋刀魚、うまいが下卑ている。」と評された金馬の特質を余すことなく伝えている。
しかし、同業者の中では金馬の評価は絶大であった。後年、矢野誠一が「精選落語会」を企画した時、「東横落語会」の向こうを張って、文楽、圓生、小さん、可楽、正蔵の5人をレギュラーメンバーに固定した。(「東横」は文楽、志ん生、圓生、三木助、小さん。ちなみに「精選」の時、志ん生は病床にあった。)それを知った文楽は、矢野に「どうして金馬さんが入っていないんですか?」と疑問を呈したという。骨太で、それでいて大衆性を持つ、そんな金馬に、文楽は自分にないものを見、敬意を抱いていたに違いない。
文楽と金馬は、同じ圓馬の薫陶を受けた同志のような関係だったのだろう。(釣り仲間でもあった。)志ん生とともに親友といってもいいかもしれない。
そういえば、昭和12年、睦会解散の後、文楽は一時、東宝名人会に加入する。金馬はそれに先立つ昭和10年、東宝名人会の専属となっていた。もしかしたら、金馬と一緒に、という思いもあったのだろうか。
文楽はその後、落語協会に参加、昭和の名人への道を歩む。金馬は、東宝名人会の専属となった時の確執から、落語協会には戻らず、終生フリーの立場を貫く。ただ、正月の興行にはゲストとして落語協会の寄席に出た。昭和32年の新宿末廣亭のビラには、夜の部に志ん生、文楽、金馬の名前が並んでいる。

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