ページビューの合計

2010年9月2日木曜日

桂文楽 昭和20年代

昭和21年、四代目柳家小さんが落語協会の会長に就任する。しかし、彼は翌年、愛弟子小三治(五代目小さん)の真打ち昇進披露で「鬼娘」を演じた後、上野鈴本演芸場の楽屋で急逝。後任の会長には八代目桂文治が就いた。(昭和26年の東京新聞社刊『藝談』では文楽を副会長と紹介している。)
昭和24年、安藤鶴夫『落語鑑賞』刊行。安藤の筆によって文楽の噺が活写され、その名人芸が賞賛された。
昭和26年以降、民放ラジオ局が相次いで創設される。この草創期のラジオで、落語は有力なコンテンツとなった。昭和28年、東京放送(TBS)は、桂文楽・古今亭志ん生・三遊亭圓生・柳家小さん・昔々亭桃太郎と専属契約を結ぶ。(これには演芸プロデューサー出口一雄の功績が大きい。)それを皮切りに民放各局の落語家争奪戦が起きたが、その契約金によって落語家の生活が向上したという。
文楽の出口に対する信頼は絶大で、TBSを「うちの会社」と呼び、背広(文楽は洋装を好んだ)には常にTBSの社員章を付けていたという。出口はTBSを退社後。出口プロダクションを設立。文楽を始め多くの落語家のマネジメントをした。
昭和29年、文楽は「素人鰻」の口演により、落語家初の芸術祭受賞を果たす。
翌昭和30年には八代目文治が没し、文楽が落語協会会長に就任。こうして文楽は名実共に東京落語界のトップに立った。
六代目春風亭柳橋・三代目三遊亭金馬に、人気という点では一歩も二歩も譲った文楽が、これほどまでに評価されたのは、正岡容と安藤鶴夫という二人の落語評論家の存在が大きい。
正岡は昭和18年刊の『随筆寄席風俗』に「名人文楽」という文章を載せている。恐らく彼が、最も早く文楽に名人の称号を与えた一人であろう。
安藤は『落語鑑賞』以後、文楽賞賛の文章を次々に書いた。そして、彼は芸術祭の選考委員になるなど、業界で大きな影響力を持つようになる。文楽が落語家初の受賞を果たした昭和29年の芸術祭で奨励賞に輝いたのは、やはり安藤が肩入れしていた三代目桂三木助。しかも受賞した演目の「芝浜」は、安藤と三木助が二人三脚で練り上げたものだったのである。その安藤が柳橋・金馬を無視し、文楽を手放しで賞賛したのだ。名人文楽という評価を定着させるのには、大きな追い風になったに違いない。
もちろんそれだけではない。昭和20年代は文楽の50代後半から60代前半にあたる。年齢的にも絶頂期にあった。端正で艶があり、しかも迫力のある文楽の噺は、聴く者を魅了せずにはおかなかっただろう。

0 件のコメント: