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2020年10月13日火曜日

『名作落語全集』、黒門町の噺

先日、私が買った『名人落語全集』のネタ本、『名作落語全集』から、「黒門町」八代目桂文楽の噺を拾ってみる。(HP「落語はろー」より)


第一巻/開運長者篇:『芝浜』、『初音の鼓』(八代目林家正蔵が得意とした)  

第二巻/頓智頓才篇:『羽織の幇間』(上方種で、上方では『裏の裏』『乞食茶屋』という。『林家正蔵(八代目)全集』にある)  

第三巻/探偵白波篇:『花色木綿』、『薙刀傷』(十代目金原亭馬生が立川談志に教えたという噺)  

第四巻/滑稽会談篇:『たちきり』(河出書房『文藝別冊八代目桂文楽』の中に収録されている)  

第五巻/芝居音曲篇:『なめる』(六代目三遊亭圓生の得意ネタ)、『役者息子』  

第六巻/滑稽道中篇:『法華豆腐』(『甲府ぃ』)、『富士詣り』(五代目桂文楽の得意ネタだったという)  

第七巻/恋愛人情篇:『心眼』、『夢の瀬川』(別名『雪の瀬川』。四代目桂文楽の得意ネタだった。現在は柳家さん喬が演っている。この噺を初代三遊亭円遊が改作したのが、黒門町晩年の持ちネタ『夢の酒』である)  

第八巻/剣侠武勇篇:『写真の仇討』(明治時代二代目五明楼玉輔が得意とした。『林家正蔵(八代目)全集』にある)、『提灯屋角力』(『花筏』) 

第九巻/変人奇人篇:『ひねりや』(明治の『百花園』にも収録されている。サゲは『唖の釣』と同じ)  

第十巻/粗忽者と与太郎篇:『やかん泥』、『無筆』  

第十一巻/酒呑居候篇:『按摩の炬燵』『鰻屋のたいこ』(『鰻の幇間』)  

第十二巻/花柳廓噺篇:『明烏』、『萬歳』(『萬歳の遊び』)


全12巻の全てに文楽は登場している。ちなみに文楽のライバル、五代目古今亭志ん生は一席も入っていない。この本が刊行された昭和初期での二人の立場の違いが見て取れる。

それよりも文楽のネタだ。収録された26席中、晩年まで持ちネタにしているのは、太字で示した、わずか4席しかない。

ちょっとだけ思うのは、これらを全て文楽が演じていたのだろうか、ということだ。とても彼の人に合わない噺も随分含まれている。もしかしたら、文楽といっても八代目だけでなく、「桂やまと」になった五代目や、名人「でこでこの文楽」(四代目)の速記なんかも混じっているのではないか。(特に『富士詣り』『夢の瀬川』はそんな気がする)

ここで思い出すのが、文楽が弟子の柳家小満んに語った言葉である。

桂小勇だった頃の小満んに、本当のネタ数を訊かれた時、文楽はとても困った顔をしたが、

「そりゃあ、あたしだって三百ぐらいは稽古をしてますよ」と答えたという。

そしてそれに続けて「富士山も裾があって高いんですよ」と言ったというのである。

文楽は最終的に持ちネタを30席足らずに絞った。自分の主題に沿わない噺を惜し気もなく捨てて行った結果であろう。してみると、この『名作落語全集』に収められているネタは、その絞り込みのプロセスをも示しているのではないか。

一部は「青空文庫」で読める。いつか全編読んでみたいなあ。


追記

初出の記事で、今村信雄と宇野信夫と混同している部分がありましたので、その部分を削除しました。すみませんでした。

4 件のコメント:

耕作 さんのコメント...

先代の文楽の持ちネタが300席もあったなんて知りませんでした。
それにしても、一巻毎につけられた編名が面白いですね。

densuke さんのコメント...

柳家小満んの『べけんや』という本に書かれています。
300席といえば、三遊亭圓生、古今亭志ん生に匹敵する数ですね。
やっぱり、合う合わないは、演ってみなければ分からないんでしょうねえ。

秀吉 さんのコメント...

文楽は自分の性格を分かってたからこそ、こうやってネタを絞ったんでしょうね。ネタを絞ってなかったら、また違った文楽の良さも出てきたかもしれませんけど、自分はコレで正解だったと思います。不器用で出来ることが少ない人が必死になった結果コレだけの物ができたんだと思います。
逆にネタを絞った事が命取りになった落語家さんも居ますしね。
例えば上方の枝雀みたいな何でも出来る人は絶対にネタを絞らない方が本人の為にも良かったと思います。
ネタが少なくなったが故に、自分の気に入らない部分がより可視化されて、何とかしなきゃと必死になって、結果的に身を滅ぼしてますし。
まぁ枝雀は文楽を意識してたわけではないですけど、でもネタを絞って良かった人とダメな人もいますが、
文楽とか三代目春團治みたいな不器用なタイプじゃない限り、あんまり話を絞るのは得策ではないかなって思いましたね。

densuke さんのコメント...

秀吉さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
そうですね。文楽のネタが少ないのは、自分の特性がよく分かっていたからだと思います。
アドリブが効かない、長講に向いていない、何よりも自分に同化できる噺しかできない。
それも試行錯誤を重ねた上でのことなのでしょうが。
それと、もう一つは、若い頃から売れていた、というのも大きかったと思います。一時期は『明烏』しかやらせてもらえなかったといいますし。
志ん生にせよ、圓生にせよ、馬生にせよ、ネタの多い落語家は不遇の時代が長かった。それもやはり、試行錯誤の結果ですよね。
プロの落語家は、常に客前で落語を演じ続けています。その中で自分のスタイルを確立させていく。どういう道を選んだとしても、その結果を自分で引き受けていくしかないんでしょうね。