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2016年5月26日木曜日

正岡子規『水戸紀行』 ~土浦辺り~

先日、真鍋と土浦の間をうろついた。
ふと本棚を眺めてみて、『水戸紀行』という本があったのに気づく。筑波書林版、「ふるさと文庫」シリーズの1作で、正岡子規の水戸へ旅した紀行文と、柳生四郎土浦短期大学教授の解説が収められている。奥付を見ると1979年に初版本が出ている。
では、子規も私が歩いたあの辺りを歩いたのだな、と思って拾い読みしてみると、これがなかなか面白かった。
土浦辺りのくだりを紹介してみよう。

この紀行文を子規が書いたのは、明治22年10月17日から同20日にかけて。旅行そのものは、これに先立つことおよそ半年前、4月3日に東京を出発し、同7日に帰京している。

明治22年4月3日早朝、同じ下宿の友人一人を伴い、子規は、友人菊池謙二郎のもとを訪ねようと水戸へ出立する。当時子規は22歳(子規と漱石は共に慶応3年生まれ、翌年が明治元年だったため、明治の年数がそのまま満年齢を表している)、文科大学(東京帝国大学文学部)国文科の学生だった。

その日は藤代に宿泊。翌4日は朝から雨だった。子規たちは雨に打たれ寒さに震えながら、昼頃土浦に入った。
昼飯を食おうとしたが手頃な店がない。宿屋らしき店に入って声を掛けると体よく断られた。歩いて行くうちにとうとう町はずれまで来てしまう。やむなく目についた小さな旅籠で頼んでみると、快く飯を出してくれた。ただ飯は不味い。家も一間か二間しかなく、ひどくむさくるしい。子細に観察してみて、やがて子規はこう思い至った。
「家族は三人にて夫婦に娘一人と覚ゆ。家婦の愛嬌よくて客を丁寧にもてなす処より娘皃(かほ)のあかぬけして一通りならぬ処を思へば此家は曖昧屋と知られたり」
つまり、この家は「食事も出せば女も出す」あやしげな店だったのである。二人は這う這うの体で逃げ出す。その上、向かいの車屋で車を頼もうとしたが高値を吹っかけられ、彼らは憤然として疲れた足を引きずりながら真鍋の坂を上って行く。

この本の解説を書いた柳生氏は、子規の歩いた水戸街道を実際にたどって実地検分をしているが、土地の人の話によると、その曖昧屋は土浦から真鍋へ入るつなぎの田圃道にあり、「初音」という名前だったらしい。車屋は真鍋の坂下と「初音」の辺りと2軒あり、「初音」の方のは「金さん車屋」と呼ばれ、評判はよくなかったということだ。

子規たちは土浦で霞ヶ浦を見ることが望みだった。できれば、見晴らしのよい座敷から霞ヶ浦を眺めながら、のんびりと昼飯を食べたかった。それがこの有様だ。彼らの落胆はいかばかりだったか。
しかし、真鍋の坂を上って行くと左手に絶壁があり、石段が続いている。あそこを登れば霞ヶ浦が見えるに違いないと思い寄ってみると、果たしてそこは数百坪に及ぶ公園で、茶屋には「總宜園」という額が掲げてあった。
この断崖に立って南の方を見やると、雨に煙って広い湖が見えた。子規はやっと念願の霞ヶ浦を見ることができたのである。
子規はここで「霞ながら春雨ふるや湖の上」という句を詠んだ。
ご難続きの土浦だったが、最後に見ることのできた霞ヶ浦は、子規に静かな感動を与えてくれたのだと信じたい。
この公園は今はない。国道6号線を通す工事で切り崩され、公園そのものが消失してしまったという。
この後子規は北上して石岡で1泊し、水戸へ向かった。

この土浦の場面に象徴されるように、東京から水戸へ、ほとんどを行き当たりばったり徒歩で行くという無茶な旅を子規は続けた。この旅は彼の身体を蝕む。水戸紀行の旅から帰ると間もなく、子規は喀血し結核と診断される。この喀血の後、「鳴いて血を吐くほととぎす」から、彼は筆名を子規と定めた。つまり、この『水戸紀行』が、子規名義で書かれた、まさに初期の文章であったのだ。

今度は『水戸紀行』片手に石岡の街を歩いてみよう。その時は、またこのブログで紹介したい。

雨の真鍋宿。こちらは2014年の初冬。

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