ページビューの合計

2019年10月16日水曜日

南千住を歩く②

今はただの路地になったが、河岸のあった辺りを歩く。
江戸時代、大量輸送の主役は船であった。東北の太平洋側を南下してきた船は、銚子沖が難所だったために、茨城県の那珂湊から内陸へ入る。涸沼川を上った後、一旦荷は陸路を通り、霞ケ浦から再び船に積まれ、利根川経由で江戸に入って行った。だから霞ケ浦及び以南の河川には至る所に河岸があり、それぞれに栄えていたのだ。
そう考えれば、私の住んでいる霞ケ浦の北端から、この千住の地も水の道でつながっていると言える。
河岸の路地の奥には熊野神社がある。


松尾芭蕉は『奥の細道』では、まず深川の芭蕉庵から舟で隅田川を上り、千住から奥州に向かって旅立った。矢立初めの句が「行く春や鳥啼き魚の目は泪」である。


そこから戻って、国道4号線を渡る。
すると日枝神社があり、少し歩くと歯神清兵衛を祀る祠がある。あまりの歯痛に耐えかねて切腹して亡くなった、清兵衛さんというお侍を供養したものとのこと。すごい話だと思う。




それから今度は東京スタジアムの跡地へ向かう。
今の千葉ロッテマリーンズの前身、ロッテオリオンズのそのまた前、東京オリオンズだった頃の本拠地である。
小学校の頃、川崎の親戚へ行った帰り、上野発の列車から進行方向左手奥に、そこだけ眩い光に包まれた一角が見えた。それが東京スタジアムであった。黒っぽい木造住宅が密集する中にあって、それはひと際明るかった。多分一回か二回ぐらいしか見たことはないはずなのに、妙に心に残っている。




千住製絨所の煉瓦塀が保存されている。千住製絨所は戦後民間に払い下げられ、大和毛織の生地工場となった。その工場跡地に東京スタジアムは建設されたのである。
その東京スタジアムも1977年に取り壊された。
跡地の一部には野球のグランドがあり、それがかすかに昔日の面影をしのばせている。


球場があった周囲をぐるりと回って、千住間道に出る。
ここのパン屋さんは、かつて球場に向かうお客で賑わったという。今も現役なのがうれしい。(この日はお休みだったが。)「ジャンボパン」、食べてみたいなあ。


さてその次は円通寺。遠くから見ても目立っていたが、正面から見るとものすごいインパクト。




ここの境内には黒門がある。住職が戊辰戦争で戦死した彰義隊士を埋葬、供養したことが縁で、明治40年(1907年)に上野から移築された。
この門の向こう側に、彰義隊士の墓がある。



この門一面に無数に空いている穴は、弾痕である。当時の官軍は、文字通り雨あられのように弾丸を浴びせたのだ。

眠くなってきたので今日はここまでとします。
続きはまた次回。

0 件のコメント: