かつて子どもは労働力だった。ところが、国家が「使える国民」を量産するために学校を作った。低所得層にとって、これは迷惑な制度だった。できることなら、学校になどにやらず、働かせたい。だからこそ、国家は親に、子どもに教育を受けさせる義務を課したのである。
多くの庶民は、学校は義務教育だけで十分で、それを終えれば、社会に出るのが当然だった。都市部の少年は、尋常小学校を卒業すると、商店の小僧や、職人の弟子となり、少女は女中奉公をするのが定番だった。
そして、我らが八代目桂文楽も例外ではない、
八代目桂文楽、並河益義は、青森県五所川原で税務署長の子として生まれた。
並河家は常陸国宍戸藩主松平家の家来筋にあたり、東京根岸の松平家江戸屋敷の近くに住居があった。父の任期が終わると、一家は根岸に帰る。並河の家は「根岸七不思議」に数えられるほど、立派な門を構えた大きな家だったという。
しかし、当主、益功が任地の台湾で客死すると、一家の命運は暗転する。収入を絶たれた並河家は、家の半分を間貸しして糊口をしのいだ。その結果、長男は中学までやらせてもらえたが、次男の益義少年は尋常小学校を三年で中退させられた。
その後。益義は、横浜住吉町の薄荷問屋、多勢商店に奉公に出される。それも、友だちを集めて、新派の芝居「五寸釘寅吉」の立ち廻りを真似して遊んでいたところを母親にめちゃくちゃに怒られた末、そのまま知らないおじさんに横浜に連れて行かれたという。
これは親に捨てられたと言ってもいい。寄る辺のなくなった益義は、自分を庇護してくれる者に、必死にくらいついていく。三代目圓馬や五代目左楽への献身ぶりには、この時の体験が大きく影響していると、私は思っている。
益義は主人にかわいがられたが、商人として真面目に勤め上げることはできなかった。15歳で多勢商店を辞め、米相場のノミヤからやくざの家に出入りするようになる。親分の娘に手を出し、制裁を受けて東京に舞い戻る。そして、四代目橘家圓喬の高座に感動し、義父のつてで初代桂小南に入門。落語家としてのスタートを切った。
並河益義が半端者であったればこそ、私たちは名人、桂文楽を得たのである。
文楽に『按摩の炬燵』という演目がある。按摩に酒を飲ませて炬燵の代わりにし、奉公人たちが暖をとって寝ようという、コンプライアンス上、非常に問題のある噺だ。この演目がラジオで放送された時には、「障碍者をあまりにも馬鹿にしている」という苦情が寄せられたそうだ。
この中に、こんな一場面(炬燵になった按摩が、小僧の寝言を聞く場面)がある。
「ヤーイ、活版屋の小僧・・・」
「オー吃驚(びっくり)した。突然(だしぬけ)に大きな聲を出して。アゝ夢を見て居るんだな。まだ十一だからなア活版屋の小僧と喧嘩でもして居る夢を見ているんだらう。成程前に活版屋があったっけな、可愛いものだ。・・・宜し〱(よしよし)俺が付いているから喧嘩をしろ、負けるな〱確り(しっかり)やれ〱」
「何を吐(ぬか)しやがるんだ間抜けめえ。マゴマゴしやァがると頭から小便を引掛けるぞ」(『名作落語全集』酒呑居候篇/山本益博『さよなら名人藝』より孫引き)
山本は「文楽がそこで小僧時代の自分自身と出会っているようにもおもえた」と書いている。
この噺は、寝言を言った小僧が寝小便をして結末を迎える。小僧の年齢が「十一」であること、小僧が寝小便をしたことを考えれば、この小僧に文楽自身が投影されていることは間違いない。文楽が小僧にやられたのは、まさに数えの11歳であり、文楽自身、小僧時代に時々寝小便をしていたというのだから。
一方で、この噺の中で文楽が同化しているのは按摩の方だ。噺の構造としては、盲人という障碍者を笑いものにしている。番頭が按摩に炬燵になってくれと頼むこと自体に、健常者の無意識な傲慢さが表れているだろう。しかし、按摩はそれを受け入れ、小僧を暖かく応援する。文楽は、按摩の自らの境遇に対する諦念と哀しみ、小さくて弱い者たちへの愛情を丁寧に描いてゆく。決して按摩を笑いものにはしていない。
さらに付け加えれば、按摩を炬燵にする奉公人たちも哀しい。朝から晩まで働き詰めで、夜は薄い夜具にくるまって寝る。寒くて熟睡できない。思案の末の「按摩の炬燵」なのである。文楽演じる按摩は、奉公人たちのこういう事情も飲みこんだうえで「炬燵」になることを同意するのだ。弱い者がより弱い者を搾取する。社会の縮図がそこにある。
ただ、その代償として按摩は酒をふるまわれている。その意味では、ウィンウィンの関係が成り立っているのかもしれない。しかし、それは弱い者同士の、哀しいリアリズムだ。
『按摩の炬燵』で色々考えた。それも、この噺が文楽の体験に裏打ちされた強固なものを持っているからこそなのだと思う。
文楽と同世代の落語家たち、志ん生も、三代目金馬も、彦六の正蔵も、また同じように奉公に出された経験を持っていた。彼らの演じる「お店もの」に、それぞれ特別な味わいがあるのも、当然のことかもしれない。(三代目金馬の『藪入り』が私たちの胸を打つのも、そういうことなのだ。)
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