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2018年11月6日火曜日

笠間に行く

またしてもこの間、平日の休みがあった。別に仕事をさぼっているわけではないが、休日に仕事が入ったりして、たまにこういうことがある。
この日は、妻も用事があって出かけるとのこと。お互い単独行動とする。とは言っても、そうそう寄席に行くほどの資金はない。笠間の日動美術館で藤田嗣治の企画展をやっているので、見に行こうと思い立つ。

秋晴れ。気持ちいい。
日動での企画展は「藤田嗣治と陽気な仲間たち」。藤田を中心に、ゆかりの人々の作品が展示されている。藤田の乳白色が美しい。

フランス館へと向かう中庭。
ここからの眺めが好き。

フランス館の屋上にある彫刻。

笠間市街を望む。

せっかくなので、笠間稲荷神社にお参りに行く。
菊祭り期間中で、平日だが人が多い。

老舗の旅館だった建物。
歴史資料館として、リニューアルオープンした。





神社の裏手に回る。楼門や拝殿は昭和の建築だが、本殿は江戸時代のもの。彫刻が見事で、見ていて飽きない。




本殿の裏には、たくさんのお狐様が奉納されている。頭の上には小っちゃな油揚げがお供えしてある。




笠間稲荷は絵馬や奉納額も面白い。眺めていると、思わず時を忘れる。それぞれにストーリーがあるんだよね。





門前の店で、名物「バター饅頭」をお土産に買う。
途中、岩間で昼飯を食べて帰る。
午後は妻と「バター饅頭」を食べながらお茶を飲んだ。
お蔭様でのんびりできました。

2018年11月4日日曜日

鈴本演芸場 10月下席夜の部

鈴本演芸場、10月下席夜の部は、特別企画「喬太郎が語る圓朝作品集」。
次の日が仕事なので、昼席をと考えたのだが、ふと前売り情報を見てみたら、まだ席に空きがある。やはり一番聴きたいのはこれかな、と思い直し、チケットを取った。

開演前に入場。その時点で、あまり客は入っていない。前売りがほとんどだから、皆、急がなくてもいいんだね。
前座は柳家緑助、『つる』。この後すぐ、11月1日に二つ目に昇進したらしい。
二つ目、柳家小太郎は『ん廻し』。さん喬門下。元気がいいね。かくし芸のくだりで手品をやってた。昔、落研の後輩、松風亭風°鈴(ぷりん)さんが、確か『松竹梅』で手品を入れてたと思ったな、ふと思い出したよ。
ここから真打。柳家小八。先年亡くなった喜多八の弟子だった。二つ目の「ろべえ」の頃に聴いたことがある。喜多八の思い出話が楽しい。喜多八の死後、小三治門下に入った。東京農工大で物理学を専攻したと聞いて、小三治が「物理を落語に生かせ」と言ったという。「どうやって生かせばいいんだ」と言いつつ、『千早振る』に入っていく。「竜田川」を相撲取りではなく川の名前だ、という所で、客席は「ん?」となる。ここから、見事に物理学を生かした『千早振る』が展開されるのだが、ネタバレになるといけないので、詳細は省く。ヒントは「ニュートリノ」、「カミオカンデ」でしょうか。客席は大ウケでありました。
林家しん平は漫談。お腹をこわしているとのこと。焼き肉屋のネタで爆笑を誘う。
お次は三味線漫談、林家あずみ。たい平一門。開口一番、「しん平師匠が『座布団にうんこがついてるかもしれないよ』と言われましたが、高座返しをしていただいたので、私は大丈夫。うんこが付くとすれば、次の百栄師匠です」と言って客をつかむ。喋りが面白い。最後に美輪明宏とレベッカのnokkoの物まねで音曲をやる。この人、売れると思うよ。
そして春風亭百栄、登場。相変わらずあやしい。喬太郎作の新作。猫の縄張り争いの話。喬太郎ワールドと百栄ワールドのコラボレーションか。自分の世界を持っている人は、強い。
中トリは古今亭文菊。端正な高座。写真で見る若き日の八代目桂文楽に似ているな、と思っていたら、何と黒門町ネタ『馬のす』に入っていく。いやあ、たっぷりと間を取って、聴かせる噺にしたなあ。もっと軽く演っていいネタだとは思うけど。でも、上手い。さすが。
ここで中入り。もはや満席、立ち見も出ている。トイレにも行列ができた。
クイツキは漫才のすず風にゃん子・金魚。金魚ちゃん、ハロウィンバージョンの髪型だといって、身長の3分の1ぐらいの飾り物をつけていた。後半は延々とゴリラのモノマネ。すげえなあ、とても後期高齢者には見えない。
春風亭一朝、『芝居の喧嘩』。ベテランの味。抜群の安定感。こういう人が出ると、高座が締まる。
膝代わりは林家楽一の紙切り。注文に「スーパーカミオカンデ」が出る。
そしてお待ちかね。トリの柳家喬太郎が高座に上がる。
この芝居は10日間ネタ出し。これが壮観。『錦の舞衣(上・下)』、『指物師名人長次~仏壇叩き~』、『怪談牡丹灯籠~お富新三郎~』、『怪談牡丹灯籠~お札はがし~』、『怪談牡丹灯籠~栗橋宿~』、『死神』、『文七元結』、『真景累ヶ淵~宗悦殺し~』、『縁切榎』。10日通った人もいるだろう。私には金も時間もないや。
この日は楽日。珍品の『縁切榎』。「今日は人も死にませんし、しみじみする人情もありません」と喬太郎。リラックスムードでマクラが続く。三遊亭白鳥が圓朝直系という話題になって、「白鳥さんを知らない人手を挙げてもらえます?」と喬太郎が客に振る。誰も手を挙げない。「えー、そうなの? 知らない人いないの? どうかしてるよ」と驚愕していた。誰もが少しは知らない人がいると思っていたんじゃないかな。すげえな。改めて、ここにけっこうコアな落語ファンが集ったのだと気づかされた。
時は明治初頭、若様が芸者と武家のお嬢様と同時に深い仲になり、どちらを選ぶかに苦悶するという噺。圓朝らしからぬドタバタ喜劇。現在やり手がいないということは、噺自体が面白くないということなのだろうが、これがまた、どっかんどっかんウケる。多少言い間違いはあるが、それを笑いに変える対応力はさすが。何より、いい加減な若様と、女二人の描写が見事。芸者の色気、潔さ、かわいらしさ、武家の娘の可憐ないじらしさ、女たちが立派に現代(いま)に生きている。やっぱり喬太郎は上手いねえ。気づくと女性の一人客が多い。彼女たちの心に喬太郎の落語は響くんだろうな。
充実の40分。こうなると、『怪談牡丹灯籠』や『真景累ヶ淵』も聴きたかったなあ。今の落語ファンのど真ん中にいるような感覚を体験できました。

余談だが、私は、この鈴本演芸場で、林家たい平と柳家喬太郎の真打披露興行を観ている。この時はたい平がトリで『紙屑屋』、喬太郎が自作の『午後の保健室』を演じた。たい平のサービス精神と、喬太郎の奇抜な発想、確かな人物描写に、私は、彼らがこれからの落語界を背負っていく逸材であることを確信した。
あれから18年、その柳家喬太郎が圓朝作品を語る特別興行で鈴本を10日間いっぱいにしたんだなあ。そう思うと感慨深い。


2018年11月3日土曜日

南武線、小田急線、途中下車の旅

尻手駅から南武線に乗る。
尻手のホームは、学生時代そのまま。まるで時が止まったようだ。


浜川崎行きの電車。車両は新しくなった。

鹿島田で途中下車。ここで降りるのは初めて。少年隊の東山紀之が少年時代を過ごしたのは、この辺りにある公団住宅らしい。
駅前商店街を歩く。





ここで昼飯にする。こんな看板を見つけて、ふらふらと店に入る。これが大当たり。


夜は居酒屋になるお店。迷わず「イチオシ」のアジフライ定食を頼む。もちろんお休みのお楽しみ、ビールもいただきます。


ふっくら、さくさく。ビールに最高の組み合わせ。

アジフライ定食、750円。ビール大瓶、550円。充実の昼食。旨し、であります。
これから、また南武線に乗って、登戸まで行く。
登戸駅はすっかり変わってしまったが、駅前の一角は当時のままだ。



小田急向ケ丘遊園駅まで歩く。

よく利用した南口。

北口は駅舎がかわいい。

北口に出て、商店街を歩いていくうちに、結局、多摩川まで行ってしまう。



南武線の線路を渡る。



河原のおでん屋さんは、店を閉めちゃったのね。

ここからは登戸駅の方が近い。
駅前再開発の中、ひっそりと昔のままの一角がある。



今度は小田急線に乗り、経堂で途中下車。
商店街をぶらぶら歩く。古本屋で大岡昇平『武蔵野夫人』の文庫本(創元社版である)を買い、ドトールに入ってコーヒーを飲む。




上野に着いたのは4時過ぎ。
蓮玉庵に入って、散歩の締めは、鳥南蛮で燗酒。これがたまらない。




お客がいなかったので、おかみさんと少し話をする。
鳥南蛮はファンが多いそうだ。鳥わさにして出してもいい鮮度のいいのを、ミディアムレアの状態で供する。「火を通し切っちゃうと、ぱさぱさになっちゃうんですよ」とのこと。歯切れのいい東京言葉が心地よい。
お酒を2合で切り上げお勘定。締めて2500円。贅沢なひと時を過ごせた。
さて、それではいよいよ鈴本演芸場へ向かいますか。

2018年11月2日金曜日

川崎駅西口から尻手駅へ

この前、平日の休みがあった。
生憎、妻が仕事だったので、ひとりで寄席に行くことにする。
せっかくだから、久しぶりに学生時代住んでいた川崎を歩いて来ようと思い立つ。

川崎駅の西口に出たのは10時過ぎ。ここから昔住んでいたアパートの辺りを歩いて、南武線の尻手駅まで行くつもり。

川崎駅西口に、もはや昔の面影はない。
南河原町銀座をぶらぶら奥へと進む。

お店も大分少なくなっちゃったなあ。

この蕎麦屋は学生の頃からあった。かつ丼をよく食べたよ。

小学校の前にあったこのお店は、文房具屋さんだったのでしょうな。

森永の牛乳屋さん。

懐かしのエンゼルマーク。

南河原町銀座が尽きたところで左に曲がる。「温泉通り」という通りらしい。ここを歩くのは初めてだ。

川崎温泉由来の碑。
この場所に、昭和22年、大黒湯という銭湯が開業。翌年温泉が発掘された。
平成5年に廃業ということは、私が学生の頃にはあったんだねえ。


そろそろアパートの方に向かおう。
アパートの近くにあったお豆腐屋さんの建物も今はない。跡地ではけっこう深く掘って基礎工事をしていたから、高層マンションでも建つのだろう。

この通りは市電が通っていたのか。


アパートがあった路地。
もちろん当時私が住んでいた建物は残っていない。

しかし、隣は当時のままだった。

私が学生時代通っていた銭湯。天然温泉だったんだ。
尻手駅へ。いつも利用していた歩道橋に上る。
毎度のことだが、私はこの歩道橋に上るたび、友川カズキの『歩道橋』という歌を思い出す。

秋晴れ。空気が澄んでいたので期待していたら・・・、

尻手駅の向こうにうっすらと富士山が見えた。

どうしてもここを撮ってしまう。

尻手駅。ほとんど昔のままだ。
駅前の小道も、あんまり変わんないなあ。
尻手駅から南武線に乗る。そろそろお昼。どこかで途中下車して昼食にしよう。

2018年11月1日木曜日

【雑談】文楽十八番 明烏③

文楽がこの「明烏」を教わったのは、三遊亭志う雀からだというのは定説になっている。
安藤鶴夫の「桂文楽十八番演目解説」でも、飯島友治の『古典落語 文楽集』の解説でもそうだが、暉峻康隆だけは違う。『CDブック 八代目桂文楽』の中で、彼は言う。
「私の親友であった八代目文楽がこの噺を習ったのは、まだ七代目翁家さん馬門でさん生と名のっていた大正時代、大阪の噺家で東西の噺を消化してレパートリーが多く、巧者とされた三代目三遊亭圓馬であった。浅草三筋町の圓馬に稽古をつけてもらっていると、当時の文楽はむやみに『エー、エー』という癖があったので、その都度師匠がガラスのおはじきをピシーリと投げつける。最初は七十余りもあったのが、一つもなくなるまでおはじきの稽古が続き、『明烏』もそうして仕込まれたという。(『落語芸談』)」
しかし、この説には大きな穴がある。文楽が旅の修行から帰り、七代目翁家さん馬門に入ってさん生と改名した大正5年、当時朝寝坊むらくだった三代目圓馬は、四代目橘家圓蔵との不和がもとで東京を引き払い、旅に出る。文楽が浅草三筋町の圓馬の家に稽古に通っていたのは、彼が前座で小莚といっていた頃。おはじきのエピソードは、文楽の自伝『あばらかべっそん』の中で、『牛ほめ』のけいこの場面に出てくるのだ。
『落語芸談』の中でも、文楽の口から「その夢楽(原文のまま、正しくは「むらく」)の少し前の立花家左近といった時代から、夢楽になったころですよ、私がオハジキでやられたのは。」と言っているのだから、このエピソードは明治末期でなければおかしい。(圓馬が左近からむらくを襲名したのが明治42年である。)

柳家小満んは『べけんや』で、「桂文楽の『明烏』は、若い頃からの十八番で、師匠がまだ翁家さん生といっていた二ツ目の頃に、志う雀という師匠から教わったそうだ。」と言っている。文楽と日常的に接している内弟子が言うのだから、文楽自身、そう言っていたと思って間違いはあるまい。さらに、その志う雀について、「こんなゴツゴツした手で、色が黒くて、渋い顔の爺さんで、それでいてじつに噺がうまくてね・・・」という文楽の言葉を紹介しているのだから、かなり具体的な証言と言える。やはり文楽の「明烏」は志う雀からのものであると、私も思う。
ただ、前述の『落語芸談』で文楽自身が、「夢楽のころの圓馬師匠は、羊かん一つたべるしぐさでも、どういう家の羊かんか、たべ分けてみせてくれるし、豆だって、枝豆、そら豆、甘納豆とたべ方が違うんですね。それがあたくしはできなくって、ピシーリとやられました。『明烏』なんかもそうしておそわりました。」とも言っているから、志う雀から仕入れた「明烏」を圓馬にも見せて指導を受けたということなのだろう。(ちなみに、仕草の稽古に関して『あばらかべっそん』では、一尺の物差しで手の甲を叩かれることになっているから、この「ピシーリ」はおはじきではないと思う。)

では、志う雀とはどのような人物なのだろうか。『古今東西落語家事典』から拾ってみる。
本名鈴木芳三郎。生没年不詳。安政7年1月に生まれ、大正期に没したらしい。初代三遊亭圓遊(ステテコの圓遊)門下で、はじめ遊楽。明治23、4年頃、師匠の前名である、志う雀に改名した。同43年、八代目司馬龍生を襲名するが、大正4年の名簿では三升家小勝門で三升亭志う雀を名乗っている。噺のスジはよかったが売れず、晩年は指物師を内職にしていたという。
実はこの志う雀、文楽の初高座に立ち会っているのである。『あばらかべっそん』の中に出てくる、文楽が小南に入門して、小莚の名前をもらった頃の話である。
神田の白梅という寄席で、橘寿という年寄の前座が来ず、急遽、寄席に出て3日目の小莚が高座に上がることになった。小莚は、素人時代に聞いてうろおぼえだった「道灌」をしどろもどろになりながらも何とかやり切る。高座を下りて意気消沈している小莚に、志う雀が「小僧さん、お前ははなしかになれるよ。一生けんめいにやんな」と言ってくれたという。

飯島友治は「師匠はこの噺を、当時すでに相当の年配だった三遊亭志う雀から稽古を受け、初めて板(高座)にかけたのは二ツ目のさん生時代であった。」と書いている。文楽がさん生を名乗ったのは大正5年から。翌年には翁家馬之助で真打に昇進しているから、さん生を名乗ったのは1年ほどである。
小満んの話と合わせれば、この大正5年に文楽は志う雀から「明烏」の稽古を受け、その年にはこの噺を高座にかけて、大いに売り出したことになる。むらくの圓馬はこの年に東京を離れているから、その前に三筋町で甘納豆の仕草を稽古されたということか。さん生(文楽)、志う雀、むらく(圓馬)の三人が揃う可能性は、かろうじて、ある。これまでの話を総合すると、文楽が「明烏」を仕入れたのは、この大正5年でしかあり得ない。
しかし、文楽の「明烏」は、それまでの演出から大きな改編を遂げている。文楽の新ネタへのアプローチの仕方を考えれば、ひとつの噺を覚えてそれが大当たりをとるまでに、1年もかからなかったとは考えにくい。
実は文楽は旅に出る前の小莚時代に二つ目に昇進している。噺が仕込まれたのが「二つ目の頃」といのであれば、旅に出る前だったと見るのが自然ではないかと、私は思うのだが、どうだろう。