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2023年6月5日月曜日

最近の外食

最近の外食。

まずは稽古帰りのゆきむら。担々麺、935円。パンチの効いた辛さ。おれ担々麺好きだったんだな。




鉾田、まるいの焼きそば。650円だったかな。久し振りに食った。旨し。絶対ビールに合うと思うんだが、昼飯だからねえ。



日立市久慈浜、レストラン清海の日替わりランチ。ポークステーキ・ジンジャーソースと魚フライのセット。魚は肉厚の鯵。ボリューム満点、旨し。高いかなと思って入ったのだが、お値段1100円とリーズナブル。人気店のようで、ほぼ満席だった。

この日は暑かったので、アイスコーヒーにした。


野菜もたっぷり。アジフライはタルタルソース。ソースと辛子じゃ和食っぽくなるか。



最後のシメは、土浦の吾妻庵総本店。ここも久し振りだなあ。大盛そば、1300円。この御時世、値上げはしようがないか。でも、旨いんだよなあ。


盛りがすごいんだ。

完食。蕎麦湯で〆る。

何と言っても、店構えが素晴らしい。



2023年6月3日土曜日

台風2号

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ、スクランブルエッグ、海苔の佃煮。

昨日から台風の影響で大雨。朝も雨が残る。雨の日のビリー・ホリデイ。


妻は仕事。子どもたちが、高校の文化祭に行きたいというので、送って行く。

ついでに駅前の古本屋に行く。学燈社から出た『落語のすべて』、新潮社のとんぼの本シリーズの『竹久夢二写真館・女』を買う。しめて800円。大変、お得。 


次男のお迎え。せっかくだから、お昼を食べよう。次男のリクエストで吾妻庵総本店へ。

この御時世、値上げはやむを得ぬ。大盛そば、1300円。旨し。



途中、妻へのお土産にみたらし団子を買う。

今朝、妹からLINEが来て、近くの義務教育学園の土手が崩れていることを知った。午後、晴れてきたので様子を見に行く。生まれて初めて見た光景が広がっていた。


霞ケ浦の方にも行ってみる。船溜まりが水没していた。




妻と夕方ビール。ハートランドビールを飲む。

夕食は豆苗肉巻き、肉じゃが、とんぺい焼きで酒。食後に白ワイン。

寝しなにアイリッシュウィスキー。



2023年5月28日日曜日

十代目金原亭馬生と大西信行

 『対談・落語芸談4』の中で、編者の川戸貞吉は十代目金原亭馬生についてこんなエピソードを紹介している。

馬生は「落語評論家は絶対に信用しない」と言う。それは「金原亭馬生の悲劇は、五代目古今亭志ん生の長男に生まれたことからはじまった」という論評に憤慨したからだ。「そんなことをいったって生まれちゃったものはしょうがないでしょ」「あたしだって生まれたくはなかった」と馬生は抗弁していたという。

対談の相手は立川談志。その時談志は「その言葉通り取れば、たしかにいった奴は暴言だけど、しかしそういう会話もわからないことはない。だけど、もういまさらねェ“天才の子に生まれた”とか“親父の子に生まれた”というのは、そんなことまで論じる奴は馬鹿だね。それよりも馬生師匠の出来不出来、または彼の功績を判断すべきではないかと思いますよ」と至極真っ当なことを言っている。

 

この落語評論家は大西信行、この論評は『落語無頼語録』という本に収められている。

その部分を、いくつか以下に引用する。

 

・いまぼくの目に浮かぶ馬生は、一席終って、立ち上がり、キザなシナをつけて踊るその姿・・・どうにも好きになれない芸人だった。なぜだろうと考えてみる。

 考えてみて、馬生という人が、いくつもの不幸を背負った芸人だと思い到った。不幸の第一は志ん生の子であるということ。

 

・志ん生がいつ帰るとも知れないことを理由に、それぞれ新しい師匠を選んで去って行って、置き去りにされた馬生はあたかも浮浪児と呼ばれた戦災孤児のごとき淋しい境遇になった。孤児の淋しさを正直に涙にでもして見せたなら、楽屋の同情も集められたかも知れないものを、馬生は可愛げのないいじめられっ子の顔で、周囲を睨み、すねて暮らした。馬生にすればそれは志ん生の子の意地だったろうけれど、ことさらに胸を張って、言うことなすこと、生意気だネ、キザでいけねェとそしられる結果だけを生んだ。この周囲の白い目をはね返すためには・・・うまくならなきゃ、と、若い馬生に思い込ませた。うまく聞かせようと、わざと声をひそめ加減の低調子、どうにも陰気な高座になった。大ネタと称される人情ばなしのような演題ばかり演じて、いっそう先輩の糾弾を受けた。まずいと言われて次々にネタを変えて・・・現在円生についでネタの多い落語家であると言われるのは、この頃の馬生のあがきがもたらしたものであった。

 

・志ん生の子でいながら、馬生は志ん生の子であることの不幸にいじめ抜かれて、志ん生のうまさを自分のものにはなし得なかった。いやむしろ、志ん生とはべつの、うまいはなし家になろうと馬生は苦労したのだとも言える。つまり円右円喬流の・・・。

 

志ん生の子。落語家としてのデビューは二つ目から。若くして金原亭馬生を襲名。やっかみを受ける要素はそろっている。しかも志ん生がわがままな人であったから、その意趣返しが馬生に降りかかった。確かに馬生がいじめられたのは、志ん生の子であったがゆえだろう。また、その悔しさをばねに、馬生が志ん生とは違うタイプの芸を追求したことも間違いではない。

論理としては正しい。しかし、改めて読むと、ずいぶんひどいことを書いているなあ。馬生の苦闘に対し、あまりに手厳しい。

大西は、また、こんなことも書いている。

 

 現代人の癖に、いかにも江戸前ということばの似合う、キリッとした顔に愛くるしい微笑みを浮かべて言った。志ん朝の幸せは志ん生の子であるということ—。

 

対比という技法はある。対照的なものを並べて、その差を際立たせ自分の主張をはっきりさせるやり方だ。とはいえ、兄弟を比較し、弟志ん朝の素晴らしさを示すために兄馬生を引き合いに出すのは、あまりに酷ではないだろうか。

「あとがき」の中で、大西は、永六輔に「ぼくは、大西さんがなにかに対して怒っている時が好きだな」と言われたことで、「精いっぱい怒りながら書く」という基本姿勢を得たと書いている。

大西には、当時東京の実力派と言われる落語家が、芸の本質よりも論理や技巧を重んじ、偏った名人志向に走っているという現状認識があったようだ。「うまいと呼ばれたい落語家」の代表として、大西は馬生と立川談志を挙げ、痛烈に批判している。

私が持っているのは角川文庫版だが、その「解説」で永井啓夫は次のように書いている。

 

 現代落語の質的解明には、江國滋・三田純市・矢野誠一・山本益博らのような見巧者の愛情にみちた指摘も多い。しかし、かんじんのはなし家たちは、落語ばかりでなく伝統芸能の世界ではいずれも共通のことだが〈批評〉をいっさい受け入れようとしないのである。それが見え透いた追従であっても〈賛辞〉は正しく、その反対に〈批判〉はすべて悪意と曲解によるものとして耳を貸さない。これは現代の伝統芸能が抱えている最大の不幸であろう。

 大西信行の『落語無頼語録』は、こうした固陋なはなし家に向かって堂々と所信をぶっつけた壮挙ともいうべき評論である。

 

大西の鋭い筆致は、当時高く評価され、昭和50年度「日本ノンフィクション賞」佳作を受賞した。翌年には文庫化もされたので、よく売れたのだろう。私も高校の時、この文庫版を買ったし、落研の部室にはハードカバー版が置いてあった。

一方で、芸人たちには評判が悪かった。後年、この馬生への論評は、評論家の暴論のサンプルとして、多くの人が取り上げた。

私は「附 桂文楽の死」を読むのがつらかった。そこには、文楽の落語家としての限界が極めて明晰に論じられていた。つらかったが、何度も何度も読み返した。

私はこの本を読む度に、落語とは何か、落語を、落語家を論じるとはどういうことか、について深く考えさせられる。私はこういう書き方はしない。しかし、この本が私の落語観に大きく影響を与えていることは否定できない。

 

永井啓夫はこうも書いている。

 

(大西信行は)落語を愛するあまり、怒り狂ってさんざんに斬りまくるものの、実はそのことによって一番傷ついているのが大西自身であることを知る人は少ない。

 

十代目金原亭馬生は、志ん生から離れようともがき苦しみ、必死になってネタを増やして芸の幅をひろげた。長い道程を経て、馬生がたどり着いたのは「志ん生」だった。

晩年の馬生は志ん生に似ていた。「一丁入り」で飄々と高座に現れ、さらっと一筆書きのような行書の芸を見せた。時折入る長い間も、きちんと芸になっていた。しかし、それは志ん生のコピーなどでは断じてない、馬生だけの世界だった。テクニックや論理を越えた所に馬生はいた。

馬生は昭和57年(1982年)、54歳で死んだ。誰もが馬生の早過ぎる死を惜しんだ。その時大西は、馬生について何を書いたか、その後何を書いたか、残念ながら私は知らない。



2023年5月26日金曜日

大甕神社再訪

大甕神社。

創建は皇紀元年という。つまり、鹿島神宮、静神社と同年の創建ということになる。

祭神は静神社と同じく建葉槌命(たけはづちのみこと)、そしてもう一柱、地元神として甕星香々背男(みかぼしかがせお)。鳥居脇にはそれを証明するかのように「大甕倭文(おおみかしず)神社」とある。


静神社のところでも書いたが、鹿島神宮の建甕槌命(かけみかづちのみこと)と香取神宮の布津主命(ふつぬしのみこと)を助けて、香々背男を征伐したのが建葉槌命である。

本殿には香々背男征伐の場面の彫刻がある。



ここには「當神社祭神武葉槌命悪神甕星香々背男ヲ金田山魔王石上ニ誅スルノ圖」と書かれている。

甕星香々背男の霊力を封じているのが本殿裏にそびえる宿魂石だ。

鎖が常備してあるほどの急坂を上る。


岩山の上には本殿が鎮座している。

神社内にある案内板によると、宿魂石は境界に祀られた「大甕」と称された磐座。この地は大和朝廷の支配が及ぶ「大倭国」と未知の世界「高見国」との結界と見立てられていた。この岩山の北側の麓には「結界石」がある。お札がいっぱい貼られていて、ちょっと写真を撮るのも怖い。すぐ近くに甕星香々背男が祀られていた。




ここは、大和朝廷の中央集権化に抗った者たちの怨みを封じ込める所でもあるのかな。どこか、ただならぬ雰囲気を感じるんだよねえ。

2023年5月23日火曜日

日立にお出かけ

昨日は土曜出勤の振替休日。

せっかくの休みなんだから、どっか行っておいでよ、と妻が言うので、ありがたくお出かけする。

先日行った静神社ゆかりの大甕神社に行く。国道6号線を北上し、日立市石名坂を上り切った辺りにある。

お参りするのは2度目。前回が2013年6月だから、間もなく10年か。

神門を造営中とのこと。


本殿のある宿魂石の磐座にも上った。

大甕神社について、詳しくは後日記事にします。

せっかくなので、日立鉱山跡の方にも行ってみる。


新田次郎『ある町の高い煙突』のモデル、大煙突。煙害対策のために建設された。完成当時(1914年)、世界最高を誇ったという。1993年、下3分の1を残して崩壊した。

そろそろ昼飯を食おうかと思い、海の方へ向かう途中、日立武道館を見つけて立ち寄る。

もともとは共楽館という日立鉱山職員及びその家族のための福利厚生施設であった。歌舞伎の上演を想定し、回り舞台と花道を備えていた。



付近は、どことなく炭鉱町をしのばせる雰囲気だ。



海沿いの国道に出て南下。そういえば久慈浜の灯台の近くにレストランがあったのを思い出す。


あった、これこれ。入ったことはなかったけど、昔からある。多少高くてもいいや、とおもいながら入店。中は地元の人たちでいっぱい。メニューを見るとけっこうリーズナブル。日替わりランチ、1100円を注文。


ポークステーキと魚のフライ、野菜もたっぷりとれる。旨くて安くてボリューミー。長年愛されてきた店なんだな、と分かる。

満ち足りた気分で店を出る。せっかくだからと、灯台の方にも行ってみる。



天気はいいし、眺めもよし。いいお出かけだった。

セブンイレブンの「きみだけプリン」を買って帰り、おやつに妻と食べる。濃厚で旨かった。

2023年5月21日日曜日

『石の花』を読む日曜

朝、パン、コーンスープ、ウィンナーソーセージ入りスクランブルエッグ。

朝一で床屋。散歩がてら歩いて行く。ずいぶん緑が濃くなった。





帰って布団を干し、風呂のカビ取りをする。

昼は釜揚げうどん、ちくわの磯辺揚げ。旨し。

午後は妻とスーツを買いに行く。20年もののスーツがいよいよ駄目になり、新調することにした。まだまだ仕事をしないとねえ。

おやつにシュークリームを食べる。

妻と夕方ビール。

夕食はホットプレートで焼いた自家製餃子、厚揚げでビール、酒。食後にウィスキー。


物置にあった坂口尚『石の花』を持って来て読む。第二次世界大戦のユーゴを描く。大きな物語も小さな物語も、どちらもすごい。坂口は少年、少女を描くのが上手いな。『三月の風は3ノット』は傑作だと思う。大学時代、彼の作品を夢中で読んだ。『魚の少年』『たつまきを売る老人』『十二色物語』。実験的な難解な作品もあったが、虫プロ出身らしいやわらかな線が魅力的だった。

『石の花』の絵は硬質だ。どこか大友克洋を思わせる。当時、坂口はベテランだったが、得意とする短編から長編へ、虫プロ風の流れるような線からニューウェーブ風のハードボイルドな画風へ、と変化することを厭わなかった。いや、どんな絵でも描けるんだな。職人としてもすごい。

1995年12月22日、坂口尚は自宅の浴室で倒れて死んだ。享年49。新聞に小さく載っていたことを覚えている。

私が持っている『石の花』は初版本。その後、大幅に加筆された新版が刊行されたという。これは読まないとなあ。


2023年5月18日木曜日

静神社

先日、那珂市(旧瓜連町)の静神社にお参りした。




妻が東京に行った時、上野の清水寺でおみくじを引いたところ「凶」が出た。験直しをしたいというので、GW、常陸大宮の久慈川に行った帰りに寄ってみたのだ。何と言っても「常陸の国二之宮、ということは県内ナンバー2のパワースポットなんだぞ」という私の言葉が、妻をその気にさせたらしい。

妻が静神社で引いたおみくじは「末吉」。着実にワンランクアップという結果となった。


さて、静神社についてである。

創建は皇紀元年、神武天皇即位の年だ。これは鹿島神宮の創建の年でもある。そう、この神社は鹿島・香取両神宮と深い関りを持つ。

鹿島・香取の神は、出雲の国譲り神話で大きな役割を果たした神だ。つまり大和朝廷の全国平定の原動力になったと言ってもいい。

常陸の国創設が大化の改新の直後。中央集権化の最前線がこの常陸の国であったことは間違いない。鹿島・香取はまさにその軍事拠点であった。

その昔、現在の県北地域に星神香々背男(ほしがみかがせお)という国つ神がいて、鹿島・香取の神をもってしてもなかなか服従しない強敵であった。それを健葉槌命(たけはづちのみこと)の助力によって征伐することができた。

その健葉槌命を祀るのが静神社である。鹿島神宮の拝殿前には高房社という社があり、神宮参拝の際には、まず、ここを拝むのが作法とされている。その高房社の祭神が健葉槌命。ということは、常陸の国平定の最前線が静神社であり、その功績を讃えての作法がそれなのだろう。

そして、健葉槌命が星神香々背男を征伐したとされる、現在の日立市石名坂の近くには大甕神社がある。

過去記事「大甕神社」l

大甕神社の祭神は健葉槌命と星神香々背男。この神社は、出雲大社や諏訪大社のように、征服された国つ神の魂鎮めのためのものではないか。事実、この神社の御神体は拝殿の裏にそびえる岩山で、ここに星神香々背男の魂が封じ込められているという。

香々背男征伐の際、石名坂には雷断石という巨石があり、健葉槌命がそれを足で蹴ると三つに割れて、現在の東海村と日立市河原子と笠間市に飛んで行った。それぞれ、そこには、石神、石崎、石井という「石」にちなんだ地名がついている。笠間市には石井神社というのがあり、祭神は健葉槌命だ。この伝承が創設に深く関わっていると見て間違いはなかろう。

2016年11月に行った時の石井神社。

今は鳥居は新しくなっている。



結論。静神社の神は、鹿島神の常陸平定に大きく貢献した武神であった。だからこその「常陸二之宮」なのだ。


ここでは武神としての健葉槌命にスポットを当てたが、一般的にこの神様は、天照大神に仕えて機織りをしたという、織物の神様として知られている。『常陸風土記』にも、ここは静織(しどり)の里と呼ばれ、初めて倭文織(しずおり)を織った地だという記述がある。それが「静神社」という名称のいわれとなったのだろう。