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2014年5月15日木曜日

詩を読む

八木重吉や飯島耕一を読んでから、ちょっとばかり詩にはまっている。
20代の頃は、よく詩を読んだ。
特に大学時代、その状況と共に、その頃読んだ詩を思い出す。
朝の南武線の中原中也。
夜の川崎のアパート、酒を飲みながら読んだ、飯島耕一『上野をさまよって奥羽を透視する』、三上寛『お父さんの見た海』、『吉本隆明詩集』、『現代詩手帖』の中に入っていた、伊藤比呂美、泉谷明。
それらの詩のフレーズが、南武線沿線の町工場が連なる風景や、川崎の路地の暗がりの記憶と共に、ふと立ち上ってくる。
最近は、角川文庫版の『中原中也詩集』を読んでいる。奥付を見ると、昭和52年版。高校2年の時買ったものか。当時、中原の詩集は角川文庫からしか出ていなかったと思う。大学の頃、私はこの本を、いつも提げていたアーミーバッグの中に入れていた。
私は、中原の詩を読みながら、彼の恋情、孤独、倦怠に、自分の姿を見た。彼の長谷川泰子への詩に、私は何度当時好きだった女の子を投影したことだろう。朝の南武線で、「朝の歌」や「宿酔」を読みながら、何度気怠い絶望に身を任せただろう。
詩人の言葉は、極めて個人的な所から発したものだが、そこには普遍的な力があったのだ。
今、改めて読んでみると、昔のLPレコードを久し振りに聴いた感じがする。この歌の次はこれだったんだよなあ、とか、これはベストアルバムには入らないだろうけど、味のある小品だなあ、とかいった感慨が次々とわいてくる。「彼女の心は真っ直い!」(「無題」)って、ランボーの「ジャンヌ・マリーの手は太い!」に何だか似てるなあ、なんていう新しい発見もある。
何にせよ、中原の名フレーズにしびれる。
「トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は静かです」(「春の日の夕暮」)
「夏の空は動かない、/雲片れ一つあるでない。」(「夏の日の歌」)
「風が立ち、浪が騒ぎ、/無限の前に腕を振る。」(「盲目の秋」)
「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる」(「汚れつちまつた悲しみに……」)
どこがいいといわれても困る。困るけど、いいのよ。聞いたことのない中原の声が聞こえる。そして、私の声がそれに重なる。
結局、詩は理屈じゃないな。中原は、詩に言葉以前の原初の表現を求めたけど、どんなに分析しようとしてもできないというのは、そういうことなんだよな。

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