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2014年5月29日木曜日

畑先生の思い出①

畑有三先生がお亡くなりになったということを、大福さんのブログで知った。
私は、大学時代、先生のゼミで学び、卒業論文を書いた。また、先生は私が所属していた落語研究会の顧問でもあった。いわば、正真正銘、私の恩師である。
先生を偲び、思いつくまま、先生の思い出を書く。

先生との出会いは、1年の時の一般教養の講義であった。その授業は、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』が題材だった。まあ、無頼派にかぶれていた私にとって、さして関心のあるジャンルでもなく、正直言って内容は覚えていない。ただ、先生の長身で洒落た雰囲気だけは印象に残った。
3年になってゼミを選択する時、近代文学というだけで、先生のゼミを選んだ。
ゼミは、3年生が、3人ほどのグループを作り、レジュメを作成して発表する。他の学生は、授業ごとに、題材になった作品の感想を書いたレポートを提出する。
私は他の授業はほとんど出なかったが、ゼミだけは出席した。ただ、4年になってからは、生来の怠け癖が出て、出席はするものの、レポートは1つだけ出したっきり、後は全然出さなかった。
先生からは「伝助君(もちろんここは本名だが)、レポート出しなよ」としきりに言われたが、とうとうそのままにしてしまった。
おかげで4年の時のゼミの成績はB。ゼミでAが取れなかった奴は、学内で私一人だったろう。
しかも、先生は、私が3年の時、落研の顧問になられたが、1年も経たないうちに、幹部がしくじって顧問を辞められた。
私は不肖の弟子でもあったのだ。

ゼミに入って、3年の夏休み。合宿を千葉県の御宿にあった、大学のセミナーハウスでやった。
私が新宿駅の集合場所に行くと、ゼミ員は誰もいない。しょうがないので、指定された電車で、一人御宿に向かった。私は皆が乗る電車を間違えたと思った。「まったく皆しょうがねえな」とぶつくさ言いながら、駅に下り、道を聞きながらセミナーハウスに向かう。
すると、サイクリングをしている一団にあった。これが畑ゼミ御一行様だった。
私は、日程を1日間違えていたのだ。もはや研究会はとうに終わり、リクレーションの真っ最中。あとは打ち上げのコンパを残すのみだった。
先生は、私の顔を見て呆れたように、「しょうがないなあ」と言った。(ほんとにしょうがない。)
セミナーハウスに戻ると先生は、「じゃあ君、これでコンパのつまみに刺身でも買って来なさい」と言ってお金をくださった。
私は、車で来ていた同郷のI君と、岐阜T君と三人で、町の魚屋に走った。
魚屋の親父さんは、「今はトビウオが旨いよ」と勧めてくれた。トビウオの刺身は、思ったよりずっと安くたくさん買うことができ、先生もご満悦であった。
このコンパが、私のゼミでの落語デビューとなった。その話は、以前書いたので、繰り返さないが、先生は「君の落語は面白いねえ」と言ってくださった。そして、その時のネタ『権助提灯』について、いくつか所見を述べられた。「もしかしたら、そのお妾さん、奥に間男隠してたんじゃないの」などと、鋭い指摘もなされていた。
その後は、ジャズ研のDさんの『センチメンタル・ジャーニー』。
シメは先生の歌である。歌詞もメロディーももう忘れてしまったけど、何て歌だったかな、ワルツで、「みんなみんな今はもう…」って感じだったかな。
とにかく旨い酒だった。その真ん中に、先生はいたのだ。

ほんと、とりとめがなくなっちゃった。今日はこれまで。もうちょっと続きます。




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