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2014年12月6日土曜日

出口一雄 志ん生とくさや

Suziさんに確かめると、やはりポリドール時代、出口は志ん生のレコードを作っていたらしい。
そこで聞いた、志ん生にまつわるエピソードが素敵だった。 

志ん生は酒が飲みたくなると、くさやを1本だけ買って出口の家にやって来る。
そして、出口が弟と暮らす二階の窓に向かって小石を投げる。
窓ガラスに小石が当たるのに気づいて、出口が窓を開けると、志ん生は片手にくさやの尻尾を持ち、「やあ」と言うようにもう片方の手を挙げる。
それから、二階へ上がり、出口と彼の弟との三人で、それこそ一升でも二升でも飲んだという。 

いいねえ。暗がりに立つ志ん生の、照れたような笑顔が目に浮かぶ。

似たような話があったのを思い出し、本棚を見てみると、宇野信夫の『私の出会った落語家たち―昭和名人奇人伝』(河出文庫)の中にこんな一節があった。
 「志ん生はその頃、新しい落語で売れていた柳家三語楼の一門になって柳家甚語楼となのり、本所の業平に住んで、貧乏のどん底だった。貧を苦にしない彼は、竹屋の渡しが廃止になって、その後にかかった言問橋を渡って、よく橋場へやってきた。その頃の彼は痩せぎすで、頬はこけ、長い前歯が二本出ていた。」
宇野の橋場の家は売れない芸人のたまり場のようになっていて、前の酒屋でとった一升一円の安酒を飲み交わした。
宇野がこの文章で書いたのは、昭和4年頃のことで、志ん生がどん底にあった「なめくじ長屋」の時代だった。

もちろん、志ん生のその時代を支えたのは、妻であるおりんさんだ。稼いだ金を全て酒に変えてしまうような夫に文句も言わず、2男2女の子どもを立派に育て上げた。(この辺の話は、長女美津子さんの『三人噺』や『おしまいの噺』に詳しい。)
 Suziさんも「息子の志ん朝は母親にそっくり。伯父は『本当にいい女房だった』と言っていました。」と言っている。

 前述のエピソードは、出口のポリドール時代のものだから、それよりは下る。昭和9年には金原亭馬生を襲名、昭和10年にレコードが発売されているから、志ん生が売れ出す直前、昭和7、8年頃の古今亭志ん馬を名乗っていた時代と私は見る。
当時志ん生は睦会に所属していて、桂文楽と親しかった。(志ん生を睦会に誘ったのは文楽であった。)とすれば、やはり、出口と文楽の交流は、このポリドール時代に始まったと見ていいのではないか。
志ん生は文楽よりさらに2つ年上だが、出口の方には文楽ほどの畏敬の念を持って志ん生に接した印象はない。どこか親しげだ。それはこんな交流を経ての付き合いだったからかもしれない。

ちなみにSuziさんの言によると、「文楽さんと伯父は正に親子の仲の親密さですよ。志ん生さんとは気楽なのん兵衛な叔父と話す甥っ子、とでも考えたらいいのではないか、と私は思います。金馬、小さんはその甥っ子の仲間(?)みたいじゃなかったのかな、と勝手に考えています。何しろ私はまだティーンエージャー。今となっては不確かな懐かしい思い出と考察です。」とのこと。
京須偕充もまた「出口さんは圓生とより、文楽、志ん生、正蔵と親しかったようだ。」と書いている。多分、出口は京須の言う所の、圓生の「芸人らしからぬ合理主義」が苦手だったのだろう。

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