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2018年1月16日火曜日

鹿島神社「由緒」について

前回の記事で、小美玉市小川地区馬場山の鹿島神社の「由緒」を、鹿島神宮のものと混同していたので訂正した。明らかに誤読であり、全くもって恥ずかしい限りであります。
その直前、『古代日本正史』(原田常治著・昭和57年・同志社刊)を読んでいたら、このような記述があったのだ。以下、引用する。

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鹿島神宮 茨城県鹿島郡鹿島町
(祭神)武甕槌大神
(記録)往古鹿島の大神が東海より霞ケ浦を遡り、小川の園部川に止まり給うた。即ちこれを久殿森に鎮め奉り、後、羽木上、成山等に遷し、さらに大同二年、今の鹿島の地に遷し奉った。
 これでみると、香取神宮が神武天皇の時代に現在の地に祀られたのに対し、鹿島神宮が現在地に鎮座したのは、ずっと後の大同二年(西暦八〇七年)のようである。

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内容は馬場山の鹿島神社の「由緒」とほぼ同じ。以下に画像を掲載する。


これはあくまで「鹿島神社」の「由緒」なのだから、「現在地」とは、小美玉市馬場山でと見るのが自然である。原田氏は、この「由緒」を鹿島神宮のものとして、「現在地」を鹿島に読み替えたのだと思う。
また、「東海」を、「東海道」や「東海地方」のイメージで見ると、いかにも鹿島の大神が大和辺りからやって来たように思われるが、これを馬場山の地から考えれば、「東海」とは文字通り「東の海」、つまり霞ケ浦東方の北浦湖畔、鹿島の方ではないか。鹿島の大神は鹿島からやって来たと見てよいのではないか。
鹿島神宮が小川から鹿島の地に落ち着いたというのは、やはり無理があると思う。
念のため『常陸風土記』を見てみたら、鹿島神宮の縁起を次のように綴っている。口語訳で記す。
「孝徳天皇の己酉の年(西暦649年)中臣氏が総領であった高向の大夫に請い願って、下総国の海上の国造の所領から南にある一つの里、那賀の国造の所領から寒田より北にある五つの里を割いて、別に神郡を設置した。その地に鎮座まします天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社を合わせ称して、香島(かしま)の天の大神と申し上げる。(中略)天智天皇の時代(662年~672年)に初めて使いの人を派遣して神の宮をお造らせになった。それ以来今に至るまで、修改築が絶えたことがない。」
鹿島神宮では創建を神武天皇元年としている。
いずれにしても鹿島の大神が、広く常陸国で信仰されていたことは間違いない。

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