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2018年5月1日火曜日

桂文楽生い立ち 並河家と「松平さま」

八代目桂文楽の生い立ちについて、文楽の自叙伝『あばらかべっそん』に立ち返って、少し詳しく見ていきたい。
八代目桂文楽こと並河益義は、明治25年(1892年)11月3日、父親の勤務地、青森県五所川原で生まれた。
父、益功(ますこと)は、「徳川十五代さまの御典医」小原家の四男で、並河の家に婿養子に来た。郁文館中学校卒業、青森県には税務署長として赴任した。文楽が生まれて間もなく、東京で官庁勤めをすることになり、根岸の家に帰った。日清戦争後に台湾へ転任(単身赴任)、そこでマラリアに罹って死んだ。
母、いくは、慶応2年(1866年)生まれ、大正11年(1922年)に56歳で死んだ。5歳から20歳まで、「お近くの松平さま」へ行儀見習いに上がっていた。
小池章太郎の語注によると、この「松平さま」というのは、従四位子爵、松平頼安のこと。明治41年2月刊『新選名所江戸図絵』の下谷上根岸町「今昔の盛況」の条に、「五十番地に子爵松平頼安」、「実業家は八番地に並河靖之(勲章師)」という記述があるといのが、その根拠らしい。並河家はこの松平の「家来筋」だったということだ。
松平頼安は元宍戸藩主、松平頼位(よりたか)の子である。この藩は幕末の激動の中、数奇な運命を辿った。
頼位の嫡子、頼徳は天狗党の乱の際、内乱を鎮めるため、水戸藩主の名代として水戸に向かった。しかし、一行に尊攘派が加わっていたことから、水戸城を占拠していた諸生党の首領市川三左衛門は頼徳の入城を拒み、発砲に及ぶ。やむなく那珂湊に退いて陣を敷いたが、ここで諸生党と戦闘になってしまった。頼徳側には天狗党も味方した。諸生党には幕府軍もついていたから、頼徳は図らずも「逆賊」の汚名を負うことになる。結局、頼徳は幕命により切腹。宍戸藩も改易となって、松平家は宍戸藩主の座を追われた。
やがて江戸幕府が倒れ、新政府は慶応4年(1868年)2月に頼位を宍戸藩主に戻し、知藩事とした。その後、廃藩置県に伴い免官され、明治13年(1880年)には、家督を頼安に譲る。
宍戸藩は水戸徳川家の支藩で、藩主は常に江戸におり、家臣のほとんどが宗家からの出向で江戸に在住していた。並河家もまた、そのような家臣の一員だったのだろう。
天狗党の乱の騒ぎでは宍戸藩家臣の半数以上が死んだ。文楽の祖母は、もとは兄の方の嫁だったのだが、その人が早死にをしたので弟の嫁に直ったのだという。もしかしたら、祖母の最初の夫は、その時の犠牲者なのかもしれない。
文楽の母、いくが松平家に出仕したのは、明治4年頃と思われる。だから、当時の当主は、頼位ということになる。御屋敷には、いくより二つ上の若様がいた。いくが舌が回らず、「御意」というのを「ごい」と言うのが面白いと、よく「ごいを呼べ」との仰せがあったという。この若様は大学に通っていた時分に失踪し、それっきり行方不明になった。
頼位が亡くなったのが明治19年(1886年)。その頃にいくも勤めを終えている。
頼位から家督を継いだ頼安は、安政3年(1856年)生まれ。いくの10歳年上だ。いくが松平家にいた時は、15歳から30歳にあたる。やはりこの人も、並河家から見れば「若様」なのだろう。
頼安の妹に高という人がいて、この人が実は三島由紀夫の曾祖母なのだ。高の娘、なつが平岡家に嫁ぎ、その孫に三島が生まれたのである。三島はこの祖母に溺愛された。
そして、三島は祖母の伯父、松平頼安をモデルに『好色』と『怪物』という2本の短編小説を書いた。それがまあ、とんでもなくいやらしい老人に描いているらしい。(現物は読んでいない)名門に生まれ、それでいて自分に何の価値も見いだせない屈折が、彼を複雑な人格にしていったようだ。
文楽の並河家から、話はいつの間にか宍戸藩松平家へ、果ては三島由紀夫へと広がってしまった。それにしても、桂文楽は、茨城県、それも天狗党に所縁のある家に生まれたということか。掘れば掘るほど、何かが出てくる。面白いなあ。




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