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2018年5月17日木曜日

東京散歩① ~上野から谷中へ~

平日の休みがあった。
妻が「連休はずっと田圃だったし、たまには寄席にでも行ってお出でよ」と言ってくれたので、ありがたく東京へ行く。
長男と同じ電車に乗って行ったら、8時半に上野に着いた。
ぶらぶらと上野公園に入る。修学旅行の団体と外国人観光客がけっこういたな。
東照宮から五重塔を見て、国立博物館の前を通って谷中方面に向かう。

もとは東照宮のもの。
明治の神仏分離政策によって取り壊しの危機を迎えたが、寛永寺のものとすることでそれを免れたという。


国際子ども図書館。
明治39年に帝国図書館として建造された建物。
鷗外先生もお勤めになっていた。

敷地内の銅像の台座には、小泉八雲先生のレリーフがある。


寛永寺にお参り。「鐘が鳴ります、寛永寺」となぎら健壱が歌う『上野(のがみ)パラダイス』が頭の中を駆け巡る。


上野戦争の碑。
明治44年になっての建立。幕臣を祀ったものだからか。

この界隈は明治の香りが色濃い。電車の中で森鷗外の『普請中』を呼んできたせいか、何だか切ない気分になる。明治は無理に無理を重ねた時代だったんだ。

当てずっぽうに路地を歩いて行くと、「愛玉子」の前に出た。



「愛玉子」の向かいには、こんな立派な和菓子屋もあった。

そこから三崎坂に出て、だらだらと下る。




せっかくここまで来たのだからと、坂の中ほどにある全生庵にお参り。裏手の墓地に回って、三遊亭圓朝の墓に参る。

墓地の中央にあるのは山岡鉄舟の墓。

その脇に付き従うように圓朝の墓がある。

さらにその傍らに圓朝の弟子、ぽん太の墓が。
こちらは墓石を新しくしたか。

三遊亭圓生代々の墓。
四代目までが刻まれている。
こちらの碑には代々の圓生(五代目まで)の略歴が刻まれている。
圓朝が亡くなった明治33年(1900年)に、六代目三遊亭圓生は生まれた。自らを「大師匠の生まれ変わり」と自負していた六代目の名が、この圓生代々の碑に残されていないというのも哀しい。(石碑にはスペースもないんだけどね)
ただ、終生六代目圓生は子どものように圓朝に憧れていたんだ。何らかの形でその名を圓朝のそばに残してやりたいと思うなあ。

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