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2020年2月3日月曜日

鈴本の方向

上野鈴本演芸場社長の発言を追ってみた。
落語協会分裂騒動や落語芸術協会との関連を考えると、なかなかに味わい深い。

まずは1971年(昭和46年)6月、新装なった鈴本のお披露目パーティーでのスピーチから。先代社長、鈴木肇の発言。
「寄席あっての落語家なのに、少し売れっ子になると、こちらをさぼる。プログラムに刷込んであるのに、へっちゃらなんですよ。お客さんに申訳が立たないですよ。あんまりひどいようなら、名人会形式にするつもりです。」
大正時代の鈴本の席亭、鈴木孝一郎も落語家の休演に頭を痛めていた。それが演芸会社設立へと向かわせたのである。

次に1977年(昭和52年)12月の鈴木肇。これは朝日新聞の記事から引用する。
「鈴木さんの苦言は、落語、芸術両協会の力の差がありすぎるということ。寄席としたら上、中、下席ともバランスが取れていないと困る。新作物にヒットが少ない今日、芸術協会の席に、落語協会から二、三人でも助っ人が出たら、番組もうまくふくらむんだがと、本当に困った顔をした。」
この、「落語、芸術両協会の力の差」が、1978年(昭和53年)の「落語協会分裂騒動」の一因になったのだろう。
立川談志は、三遊亭圓生の落語協会脱退が現実化した際、「協会分裂論」を唱えた。「落語協会、落語芸術協会に、もう一つの第三の協会をつくって、一月を十日ずつ寄席を担当した方が、プログラムのマンネリも変えられるし、私も自分の考えをより強く反映させることができるから、落語界の前途のためにも、いろんな実験もやり易い」と考えたのである。もともとは「落語芸術協会と三分するとはいうものの、三分の二対三分の一という発想」であり、それを前々から師匠小さんにも進言していたという。
そして、この「三分の二対三分の一という発想」こそ、鈴本の意向に沿うものであったことは間違いない。実際に、落協A(小さん・正蔵・馬生・圓歌他)、落協B(圓生・志ん朝・談志・圓楽他)、芸協で回すことができれば、興行として大いに魅力的だ。
『よってたかって古今亭志ん朝』(文藝春秋刊)での弟子たちの対談によると、上野鈴本演芸場と浅草演芸ホールは新協会の出演を確約していたという。
以下に引用する。

八朝 師匠は寄席の方は大丈夫だと確信していたものね。新宿(末広亭)は駄目だとしても、浅草(演芸ホール)と上野(鈴本演芸場)は了解をとっていたから。でも結局上野が寝返っちゃった。これじゃあ勝負にならないものね。それがあったから随分長い間、上野には正月しか出ていないはずだよ。
志ん橋 師匠が上野のことを知ったのは新聞だったの。新聞に出ているのを朝、見て、
「えーっ」 
ってすごい声を出したの。
「どうしたんですか?」
 って聞いたら、
「上野が寝返った」
「本当ですか?」
「新聞に出てる」
「何で新聞を信じるんですか?」
「こうやって出てるんだ、間違いねえだろう」
「師匠は確認してないんでしょう? 確認したらどうです?」
 で、師匠は上野に電話してね、電話を切ってから暫くはぼんやりとしてたもんね。

この「上野の寝返り」は金原亭馬生の一言が効いたのだろう。詳しい経緯は次の記事を読んでほしい。〈金原亭の落語協会分裂騒動(『小説・落語協団騒動記』より)
結局、新協会設立は寄席出演が認られなかったことによって頓挫した。

1984年(昭和59年)9月、今度は落語芸術協会が鈴本演芸場への出演を拒否するという騒動が持ち上がる。
当時の朝日新聞から事の経緯を辿ってみる。
「鈴本が昨年、初めて赤字を出したこともあって、客の入りがよくない芸術協会に対して『魅力ある顔ぶれをそろえるためにも、芸術協会の出演時に常時、落語協会のメンバーを入れたい』と申し入れたことがトラブルの発端」となった。(当時、芸術協会の興行では落語協会の7割の集客にとどまっていたという。)
この申し入れに、芸術協会も落語協会からの助っ人を受け入れるという苦渋の選択をする。ただ、芸協側は「落語協会からの助っ人は理事三人以内、出演料は一括して芸術協会が受け取り、応分を落語協会に支払う」という条件を付けた。これを鈴本が拒否。それに対し、芸協も「九月以降の出演は一切辞退する」と通告し、交渉は決裂した。
記事では「あえて出演拒否という強硬手段に訴えたのは、鈴本側の申し入れが、人気者の多い落語協会への吸収、合併につながりかねない芸樹協会の存続にかかわるものと判断したためのようだ」としている。
芸術協会としては、6年前の落語協会分裂騒動で出番を削られそうになり、そして今、あからさまにお荷物扱いをされたわけで、堪忍袋の緒が切れたとしても無理のないことだと思う。
その年の12月、芸術協会の中堅真打、桂文朝・桂文生・桂南喬の三人が落語協会に移籍した。有望株だったこの三人の離脱は、芸術協会にとって大きな痛手だったろう。三人としても鈴本というメジャーな定席を失うことに芸人として危機感を抱いていたに違いない。

結果として鈴本は集客力の劣る芸術協会の興行をやめた。その後平成の時代になって、出演者の数を絞り、トリのネタ出し特別企画を多用する、「名人会方式」へと舵を切る。
このようにして鈴本の興行形態は、代々の社長が目指したところへ向かって行ったのである。

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