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2021年12月13日月曜日

八代目桂文楽訃報を伝える新聞記事

 今年は八代目桂文楽没後50年。50年前の今日の朝日新聞朝刊の記事から当時を振り返ってみたい。


記事によると、文楽は、12月12日、日曜日、午前9時20分、肝硬変のため、東京都千代田区神田駿河台の日大医学部付属駿河台病院で亡くなった。79歳。

告別式は18日、落語協会葬を兼ねて台東区西浅草の東本願寺で行われる。喪主は長男、並河益太郎、葬儀委員長は落語協会会長、三遊亭圓生。


各落語家のコメントは次の通り。

柳家小さん「さびしいねえ。本当のはなし家らしい人が、いなくなっちゃった」

金原亭馬生「(9月に母親を亡くしたばかり)二つともこんなことが続いて、悪い夢見ているみたいで・・・。オヤジ(古今亭志ん生)は、だまったきり、なんにもいいません。こたえたんでしょう」

三遊亭圓生「戦後のころ、われわれの仲間も動揺しましてねえ。そん時も、あの人はごうも揺るがずってんですか、きちんとしたはなしを守った。それが、下にどれだけ力になったか」


同年8月31日、国立小劇場、落語研究会で「大仏餅」口演中に絶句した、その後について、記事ではこのように書いている。

「これが最後か」と、居合わせた人は思った。が、本人はやる気十分。「お客さまにすまない」を繰り返し、気分のいいときは「寝床」や「心眼」を口ずさんでいた。

これを見ると、文楽は復帰に意欲的だったと思われる。

川戸貞吉の『落語対談2』では、西野入医師が、周囲が高座復帰を勧めても「お気持ち、ありがとございます」と言って、文楽は頑として応じなかったと証言していた。

大西信行は『落語無頼語録』の中で、「でも、春ンなったら、ぽつぽつ新しいはなしもやるように心掛けているんだ」と語る文楽を描いている。

文楽自身、揺れ動いていたんだろうな。結局、文楽はその後、二度と高座には上がらずに逝った。


記事の最後はこう結ばれている。

夫のまくら元にすわった梅子夫人は、弔問客が来るたびに、顔の白布を取り、「ほら、〇〇さんですよ」。安らかそのもの、といった死顔だった。いまにも、長いまゆ毛の下の大きなまなこが開いて「こりゃどうも、あばらかべっそんで」といい出しそうな。

2021年12月12日日曜日

夫婦で笠間観光

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーの炒めもの、納豆。

今日は久し振りに観光がしたいね、という話になり、妻と観光地笠間へ行く。子どもたちは、午後から友達が遊びに来るのでお留守番。

まずは、最近できた、道の駅笠間に行く。

ここの目玉は笠間栗のモンブランだが、もはや大行列が出来ていて断念。直売場を見物する。


外のテントで妻の好物の焼き椎茸を売っていたので、買って食べる。一本150円。肉厚で旨い。


道の駅を出て、稲田の石切り場へ向かう。県内有数の絶景ポイントだが、行き過ぎてしまったらしく、峠を越えて桜川市に入ってしまう。

ふと鏡ヶ池という石碑が目に入って寄ってみる。


桜川の水源。どんなに日照りが続いても水が涸れたことがないという。

来た道を戻って、石切り場の見学地を見つけたが、もう駐車場はいっぱい。では、稲荷神社へ向おう。

佐白山公園の駐車場に車を止め、お稲荷様にお参りする。





ちょうど昼どき。門前の柏家で昼飯にする。私はけんちんそば、妻は稲荷そばにする。稲荷寿司をひとつ、つけた。

稲荷そば、880円。

けんちんそば、880円。



また、ぶらぶら歩きながら駐車場へ向かう。途中、壺焼き芋、サザコーヒーを買って、ベンチに座って食べる。震度4の地震がある。ちょっとビビる。

1本300円とリーズナブルである。

車に乗って向山窯へ行き、やきものを見て、お向かいの石窯パンで食パンとクロワッサンを買う。

妻が、クロワッサンはすぐに食べるのがいちばんだと言うので、愛宕山の上まで行き、下界を眺めながら食べる。なるほど、ぱりぱりして旨い。カスタードクリームとチョコレートとの相性も抜群だったね。


買い物をして、3時頃家に帰る。片道1時間ぐらいで充分観光気分を味わえた。やはり茨城はいい所だ。

妻と夕方、ハートランドビールを飲む。

夕食は妹からお歳暮にもらった鰻を丼にし、笠間で買って来た椎茸を焼いて食べる。これがまた燗酒に合うんだな。旨し。

食後に妻は白ワイン、私はアイリッシュウィスキーを飲む。

美味しいものをいっぱい食べて、のんびりできた。奥さん、今度はモンブランを食べようね。


今日は八代目桂文楽の命日。今年で没後50年である。

在りし日の黒門町。


2021年12月11日土曜日

寒い朝

寒い朝。外は霜で真っ白だった。


朝はフレンチトーストと紅茶。

妻は仕事に行った。天気がいいので布団を干す。


午前中は五代目小さんを聞きながら書きものをする。小さんの『笠碁』は楽しい。

昼は次男が作った焼きそばを食べる。旨かったよ。

昼過ぎ、長男はアルバイトに行った。

荒木陽子の『愛情生活』をぽつぽつと拾い読む。夫荒木経惟との生活を軽快に綴ったエッセイ。陽子さんは1990年、42歳で亡くなっている。

夕方、妻がピーナッツの塩茹でを作る。それをつまみに二人で「お疲れ生」の夕方ビール。

夕食は、鶏の唐揚げ、卵豆腐、ポテトフライで燗酒。食後に妻とワイン。

寝しなにアイリッシュウィスキー。


ここんところ仕事が忙しい。定年前より仕事をしている気がするよ。

2021年12月8日水曜日

三遊亭圓丈を悼む

三遊亭圓丈が死んだ。寂しい。

 

圓丈を初めて見たのは新宿末広亭だった。落語協会に復帰した直後だったと思う。ネタは『競走馬イッソー』だった。雑誌『落語界』で『ぺたりこん』も読んでいたが、今まで聞いたことのないタイプの落語だった。それまでの新作落語といえば、熊さん八つぁんを鈴木君山田君に代えた、古典の焼き直しのようなものだったが、圓丈の新作は、SFあり不条理あり、とにかくぶっ飛んでいた。

やがて圓丈は、テレビの「名人劇場」で口演した『グリコ少年』をきっかけに、一躍マスコミの寵児となった。

同時期には池袋演芸場で、前日のお題から翌日新作を作り、ネタおろしするという「三題噺の会」を開いた。定席だから十日間ぶっとおし。本当にとんでもないことをやったのだ。ここから名作『インドの落日』は生まれたのではなかったか。

その頃、私はちょうど大学生で落研に所属していた。私自身はゴリゴリの古典派だったが、圓丈の登場には興奮したな。落語の新しい時代が切り開かれていく高揚感があった。『グリコ少年』は無論だが、『悲しみは埼玉に向けて』『パニックイン落語界』など、まさに抱腹絶倒の面白さだった。(落研同期の八海くんが「追ん出し寄席」で演った『夢地獄』も面白かった)

圓丈がテレビで売れていたのはそれほど長い期間ではない。その身にまとうマイナー感が、テレビとは相性がよくなかったのだろう。そのおかげで消費されずに済んだ。圓丈はテレビタレントにならず、あくまで落語家でいてくれた。

 

そして、落語協会分裂騒動を描いた『御乱心』の刊行。大圓朝へと遡る三遊本流をずたずたにした師匠圓生、兄弟子圓楽へのまっすぐな怒りをぶちまける。これを書くことで世間が狭くなることは明白だったろうに、それでも彼は書かずにはいられなかったのだ。圓丈は闘う男だった。

後年の著書『ろんだいえん』でも、その刃は古典という財産にただ乗りしているような落語家に、評論家に、果ては観客にも向かった。

 

圓丈が作った新作落語は300席に及ぶという。師匠圓生の持ちネタに匹敵する数ではないか。

彼が切り開いた道に、春風亭昇太が柳家喬太郎が三遊亭白鳥が続いた。立川志の輔の初期の新作も、圓丈という先達がいなかったら生まれていなかったと思う。

新聞は圓丈を「新作落語のカリスマ」と呼んだが、彼は自分が権威になろうとはしなかった。若手を相手にウケで負けまいと、本気でのたうち回っていた。

 

先代圓楽がぶち上げた鳳楽による七代目圓生襲名騒動の時は、圓窓とともに襲名レースに名乗りを上げた。圓楽一門が推す鳳楽と、六代目の遺族の意をくんでいるという圓窓との泥沼の争いに割って入った圓丈は、鳳楽と浅草東洋館で「七代目三遊亭圓生争奪落語会」を開く。まるでプロレスのような展開に、いつしか襲名問題も立ち消えになって行った。

この時圓丈は「鳳楽は六代目の孫弟子、圓窓は柳枝門下からの移籍、圓生の名は直弟子の私が継ぐ」と言った。圓生の死後、落語協会に復帰した際、三遊一門としてまとまることすら許されなかったことへの怒りが、圓丈を突き動かしたのだろうか。ただ、圓丈は策謀を巡らすことはせず、観客を巻き込んだ。それが先代圓楽の野望を吹き飛ばす結果となった。(鳳楽には気の毒な結果にはなったが)

この一件で私が感じたのは、圓丈の「自分は大圓朝に連なる三遊本流の落語家である」という強烈な自負であり、矜持であった。

 

私が圓丈を最後に見たのは、2019年5月下席、浅草演芸ホール昼主任の高座だった。圓丈はその頃好んで着ていた袖なしの羽織姿で現れた。昔はワッペンをちりばめた高座着だったなあなどと思いながら、私は圓丈の高座に向き合った。

座布団の前には見台があり、そこにはメモが用意されていた。ここ数年、彼が記憶力の低下に悩み、薬を服用していたことを、私は後に知った。

ネタは『強情灸』。分裂騒動の際の圓生の宿敵、柳家小さんが得意にした古典落語が、私が最後に見た圓丈の落語かと思うと、今更ながらに感慨深い。

その時は、そんなことになろうとはつゆ知らず、それなりに楽しんでいたのだが、今にして思えば、やっぱり新作が聴きたかった。

 

圓丈師匠、あなたの闘う姿を、私はずっと、カッコいいなあと思いながら見てきました。

ご冥福をお祈り申し上げます。

2021年12月6日月曜日

石岡市旧八郷町地区の火の見櫓

石岡市旧八郷町地区で火の見櫓をいくつか見つけたので、紹介します。

まずは半田の火の見櫓。なかなか立派。うれしくなっちゃった。





お次は恋瀬から善光寺楼門へ行く途中に見えた火の見櫓。山里の風景に溶け合っていい雰囲気でした。




こちらは瓦井。


最後は小幡。


2021年12月5日日曜日

八郷ドライブ、善光寺から有明の松、そして圓丈が逝った

朝、マフィン、スープ。地区のゴミ拾い。

妻と次男は義父の墓参りに牛久へ行った。

私は、長男がアルバイト先の会食に出る、というので八郷の山の方へ送って行く。(長男はアルバイトの往復でしか車を運転していない)

長男を降ろして、私は八郷盆地の北の方をドライブすることにする。

ドライブのお供は、この前100円で買った中古CDのママス&パパス。空気の乾いた冬の日によく似合う。


お山は紅葉。

国の重要文化財になっている善光寺楼門に行く。




奥の石段を上る。上には本堂らしき建物がある。ところが・・・。




映画『羅生門』のセットのように荒れ果てていた。ちょっと現実ではないみたい。立派なお堂だったと思われるのだが。(ネットで調べたら、特撮もののロケ地になったらしい)

「月光山」の額。

同じ敷地内に神社があった。



夢を見ているような気分で石段を下りる。


そろそろお昼。近くの蕎麦屋に入る。盛りせいろ、800円。本格派、旨し。



この辺りは、あの銘酒「渡舟」の酒米を作っている所だ。



恋瀬から有明の松へ。今はもう松は枯れてしまって、石碑だけがある。



その昔、難台山で合戦があった。難台山のお城は落ち、城主は討ち死に。城にいた婦女子は落城前に落ちて行った。山道を夜通し歩き、麓の松の大木の下で休んだ。その時の夜明けの空があまりに美しかったので、自分たちの行く末もそれにあやかりたいと思い、この松を「有明の松」と名付けたという。

あの山から娘たちは逃げて来たんだね。

この近くに高校の同級生がいて、よく遊びに来た。この辺りの風景が好きだった。

筑波山。


1時頃家に着く。妻と次男は2時頃、長男は3時頃帰って来た。

妻とテレビを見ながら「お疲れ生」の夕方ビール。『孤独のグルメ』の最後の方を見る。


引き続きぼんやりニュースを見ていたら、三遊亭圓丈の訃報を知る。76歳、まだ早いよなあ。『ぼくはグリコ少年だった』『悲しみは埼玉に向けて』『パニック・イン落語界』『夢地獄』・・・、ゴリゴリの古典派落研部員だった私にとって、彼の作る新作落語は衝撃だったな。彼の後には柳家喬太郎や三遊亭白鳥、林家彦いち等が続いた。彼がいなかったら、今のような新作落語は存在しなかっただろう。でも、圓丈は大御所然とすることなく、いつでも本気でウケようと、のたうち回っていた。ずっと彼は闘う落語家だった。圓丈師匠のご冥福を祈る。


夕食は、カスミの焼き鳥、千成亭の餃子とニラレバ炒めで燗酒。食後にアイリッシュウィスキー。


ネットを見て、圓丈が認知症だったということを知った。2019年5月の浅草演芸ホールで『強情灸』を演った時は、見台に台本を出していたが、そういう事情があったのか。この1年近く高座に出ていなかったという。

圓丈、もういないのか。寂しいなあ。

2021年12月4日土曜日

虎屋の羊羹

朝、昨夜のすき焼きのつゆでうどん。

朝いちで床屋。散歩がてら歩いて行く。


 紅葉がきれい。


妻の言い付けに従い、自分の机周りの片付けをする。もはやいつのだか分からないフロッピーディスクなどを、やいやっと処分。百均で収納ボックスを買って来て、紙袋に入れていた資料を整理。大分すっきりしたかな。発掘した本をぽつぽつ読む。

昼は妻が作った海苔巻き。冷凍唐揚げも旨いね。

おやつに川崎の親戚からお歳暮で頂いた虎屋の羊羹を食べる。番茶をすすりながら羊羹とは、おれも枯れたねえ。


「お疲れ生です」と、妻と夕方ビール。

夕食はさんまの煮たの、チャーシュー、さつま揚げの煮物で燗酒。

食後に妻ともう少し飲む。私はアイリッシュウィスキー。

寝しなにアイリッシュウィスキーを飲む。