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2018年6月28日木曜日

六代目三遊亭圓生と八代目林家正蔵④

大正11年2月、四代目橘家圓蔵死去。59歳であった。
圓生は、義父圓窓が師匠の名跡を継いで五代目橘家圓蔵となったのに伴い、その名を継いで三遊亭圓窓と改名した。
正蔵は、師匠三代目三遊亭圓遊が落語家を廃業し幇間に転向したことから三遊派を離れ、三遊亭圓楽のまま三代目柳家小さんの預かり弟子となる。一時大阪へ出て二代目桂三木助の世話になるが、やがて東京へ戻り四代目蝶花楼馬楽の内輪になった。
大正14年1月、圓生は、義父の五代目三遊亭圓生襲名とともに六代目橘家圓蔵を襲名する。名前の上では順調に大きな名前を継いではいるが、それは義父のおかげ。依然圓生の低迷期は続いていた。
正蔵の方は同年8月、柳家小三山(後の五代目古今亭今輔)らと落語協会を脱退し、落語革新派を結成するが、翌年の1月に解散。あだ名となった、「トンガリ」ぶりを発揮している。
昭和3年4月、馬楽が四代目柳家小さんを襲名。その後を継いで、正蔵は五代目蝶花楼馬楽を襲名した。昭和15年1月には五代目圓生が57歳で死去。翌年の1月、いよいよ六代目三遊亭圓生が誕生する。
その頃の話として、正蔵は前回引用した「円生師匠への公開状」という文章の中で、こんなことを書いている。

 「貴方はお忘れになったかもしれないが、私は自分自身のことであるからよく覚えているが、中国との事変が少し大きくなって来た時分ですが、当時の落語協会の会長は一竜斎貞山師でしたが、この先生が、『今度協会で幹部を拵えよう。第一号としてお前がなれ』と言って、蝶花楼馬楽時代の私に白羽の矢が立った。(中略)その時に貴方が私の家においでになった。『私も親父の名前を継いで円生であるから、貴方が幹部披露をして私より地位が上になると、亡き親父の手前面目ないから何とかそこのところを宜敷く頼む』と言われたから、私もすぐに貞山師の所へ行って、『現在の地位のまんまで円生は一枚上にしといて呉れなきゃ、私は大幹部にはなりにくい』と言ったらば、貞山師が私の顔をジッと見て、『お前は欲のない人間だ』と言ってお笑いになったことがありました。」 

圓生と正蔵が不仲だったとは以前に書いた。その不仲の原因が、このエピソードにあったのかもしれないということは、案外知られていない。
立川談之助著『立川流騒動記』の中にこのような記述がある。以下に引用する。 

「それではなぜ円生と正蔵がそんなに不仲になったのだろうか、この騒動の最中に私はある正蔵師のお弟子さんに意外な事実を聞いた。それによると円生は正蔵より落語協会の香盤(芸人の序列のこと)が上になっているが、本来は正蔵の方が円生より一枚上だったというのである。落語の世界では序列が一枚違えばそれだけで兄弟子、弟弟子という上下関係になってしまう。それがどうして円生が正蔵よりも上になったかというと、円生が円蔵から『三遊亭円生』という大名跡を襲名する時に、当時蝶花楼馬楽だった正蔵に、
『馬楽さん、私も円生という大きい名前を継ぐんで、すまないがお前さんより私を形だけでもいいから上にしてもらえないだろうか』  
と頼んだそうである。普通の芸人なら断るところだが、人のいい正蔵は、
『ああ、あたしは構わないよ』 とうっかり承諾してしまったというのである。それがこれ以来ずっと協会の順列になってしまったのである。」 

二人の証言を並べてみると、ちょっとした違いがある。正蔵の記述では「現在の地位のまんまで円生は一枚上にしといて呉れなきゃ」とあるが、談之助の方は「本来は正蔵の方が円生より一枚上だった」としてある。ここは本人が言っているのだから、当時の香盤は圓生の方が正蔵よりも一枚上、しかし正蔵が幹部に抜擢されて圓生を抜きそうになったので、抜かないように圓生が頼みに行ったというのが真相だろう。
とはいえ、その後の次に続く談之助の分析は鋭い。 

「正蔵は本来自分の方が上だと思っているから、円生に対して遠慮しないでずけずけと物を言う。円生はたとえ譲ってもらったとしても香盤上では自分が上であり、芸の上でも逆転したという自負があるので面白くないという図式で、いつの間にか2人は犬猿の仲になってしまったというのである。つまり円生の落語協会脱退の真の原因は、正蔵がバックの小さんと、正蔵嫌いの円生の代理戦争だったという訳なのだ。」 

さらに正確を期すとすれば、正蔵はあくまで圓生を対等に置いていた。入門では先輩だが、年は5歳も上、しかも同時期に真打ちに昇進、その若手の売り出し時期に、二人ともそろって下手だと酷評されていた。そこに、圓生に対する正蔵の遠慮のなさがあったのだと思う。
一方、圓生から見れば、「芸の上で逆転した」といった意識もなく、芸の上では常に正蔵など眼中になかったのだと思う。彼が張り合っていたのは、むしろ正蔵より上の、文楽や志ん生だったのだから。そんな正蔵に香盤を抜いてくれるな、と頼みに行ったこと自体、圓生にとっては屈辱だったのだろう。そして、それを正蔵があっさり受け入れたからこそ、圓生のプライドはいっそう傷ついたのではないか。
人間というのはつくづく難しいものだねえ。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

人の良い正蔵さんとプライドの高い圓生さんではやはり分かり合えなかったんでしょうね。
そういえば不仲と言えば、最近見た木久扇さんのインタビュー記事で正蔵さんは文楽さんとも
不仲で、しかも文楽さんが一番不仲な落語家が正蔵さんだったと書いてありました。
文楽さんと正蔵さんに関する話は良い事に関しても悪いことに関しても、
文楽さんが正蔵さんに髑髏柳を譲った話と、
正蔵さんに相談もなく文楽さんが小さん襲名を進めた話くらいで、
後は全然聞いたことが有りません。
主さんは文楽さんと正蔵さんのエピソードで何か知っていることはあるでしょうか?

densuke さんのコメント...

文楽と正蔵の仲ですか。
『落語藝談』(暉峻康隆)という本の中で、文楽は正蔵について「喧嘩もよくしたけど、根はいい人だ」というようなことを言っています。
『八代目正蔵戦中日記』の中でも文楽の記述は多く、よく交流していたようです。(「一緒に飲んだ」とか「ご馳走になった」とかよく出てきます。)文楽は正蔵より3歳上で、落語家としてのキャリアも売れ方も地位も一枚上、正蔵は「文楽師」と書いていました。
文楽のマネージャー出口一雄は正蔵とも仲が良く、よく一緒に飲んでいたようです。
不仲といった印象は、私としてはありませんでした。
もし正蔵にわだかまりがあったとすれば、小さん襲名の一件しか思い浮かびません。文楽から正蔵を嫌っていたようにも、本を読む限りでは感じられませんでした。
木久扇のインタビュー記事を読んでいないので、何とも言えません。ネットでも読めますか?

匿名 さんのコメント...

返信ありがとう御座います。
なる程、交流はしっかりあるし、不仲ってわけでは無さそうですね。
私がみた記事は下記のURLから見れます。
https://bunshun.jp/articles/-/37806
ただ、これは木久扇さんがヘマをやらかして事に対して三木助さんの奥さんが口から滑らせた物ですので。
三木助さんは文楽さんと仲も良いし、多分家族での付き合いもあるから、奥さんの言うことも嘘ではない気がするのですけど、
やっぱりこれは小さん襲名騒動の後だったから、このような印象が三木助の奥さんに着いてしまったんでしょうかね?

densuke さんのコメント...

私もその記事よんでみました。三木助のおかみさんの言葉は、やはり小さん襲名の件が影響していると思います。
あれは大分もめて、浅草の山春というテキ屋の親分が正蔵の加勢をして大騒ぎになったともいいます。文楽の師匠、五代目左楽が海老名家から正蔵の名跡を借りてきて、やっとのことで話を収めました。
『落語藝談』の中で、文楽は正蔵の「芸がよくなったし、若い者の面倒もよく見る」と褒めています。
師匠が亡くなった時には、弟子はその係累に引き取られるのが通例です。当時三木助は文楽門下にいたので、兄弟弟子の小さん(三木助と小さんは義兄弟の盃も交わしていました)か、師匠の文楽、あるいは元師匠の春風亭柳橋の所に行くのが順当だったのでしょうが、木久蔵から全く系譜の違う正蔵の名前が出てきたので、おかみさんも面食らったのでしょうね。