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2021年3月11日木曜日

あれから10年

震災から今日で10年。

あの日は4月からの新しい仕事に向けて準備のため、パソコンに向かっていたのだった。突然、両肩をつかまれて揺さぶられるような強い揺れを感じた。長い揺れだった。外に避難したが、何度か強い余震が起きた。不動のものだと信じていた大地が、突然頼りなく思えた。船酔いのように平衡感覚がおかしくなっていた。

いつもの倍以上の時間をかけて家に帰った。家族は庭の車の中にいて、家の前には瓦が散乱していた。

翌日から自宅待機になった。家の中はぐちゃぐちゃだった。

電気が通って津波の被害を知った。呆然とした。そして福島の原発が爆発した。世界が終わったと思った。終わらないまでも、世界は大きく損なわれ、二度と戻らないのだ、と思った。その予感はそれほど外れてはいなかったと思う。





断水はしばらく続き、トイレの水を調達するために、私は父と霞ケ浦に水を汲みに行った。

やがて仕事が始まり、日々の忙しさに巻き込まれていく。その辺りのことはよく覚えていない。


翌年の夏、岩手に出張した。帰りに、相方の希望で石巻と女川に寄った。(相方はそこでボランティアをしたという)

石巻では津波と火災で廃墟のようになった小学校を見た。



校舎は焼けただれていたが、校庭にはひまわりが咲き、白いユニフォーム姿の子どもたちが野球の練習をしていた。

女川では津波で倒壊した建物が、そのままごろんと横たわっていた。




静かだった。なんでこんなに静かなんだと思った。入り江には白波ひとつ立っていなかった。


あの石巻の小学校は門脇小というんだと、後で高山T君が教えてくれた。津波で流された車が炎上し校舎に燃え移ったという。

最近、春の選抜高校野球大会に出場する大阪桐蔭高校のエースが門脇小の出身だということを知った。彼が震災に遭ったのは小学1年生の時で、翌年、父の仕事の都合で北海道の旭川に転校したらしい。

私があの時見た少年野球の選手の中に彼がいたかどうかは微妙だが、あの子たちはもう高校生かそれ以上になっているんだな。あの子たちの姿に、あの時私は希望を見たような気がしたんだ。今年の甲子園はそんなことを思いながら見ようと思う。


あの日、妻が慌てて幼稚園に行くと、次男たちは園庭で円になってしゃがんでいたという。その次男も今は高校1年生だ。10年は決して短くない。

2 件のコメント:

ゆう さんのコメント...

こんにちは。
石巻と女川に行ってくださってたのですね。あの状況下で本当にありがたい思いです。
横倒れになっている交番の写真に写っている奥の山ありますよね?
そこの切り裂いた岩の根元に代々住んでました。
岸壁から50メートルも離れていないのですべて流されました。
残ったのは玄関のタイルと、納屋のレールだけでしたね。
1ヶ月後に実家を訪れたのですが、景色がガラッと変わってしまったため、脳が画像を
ちゃんと判断できないのか、知らない外国にきたような感じがしました。デジャブの逆のような。

元の場所を商業エリアにするため家を建て直すことが禁じられたため、松島に引っ越さざるを得なくなって現在に至ります。
コロナになってからは松島にも帰れていないですが、女川はちょっと街が変に新しくというか、
駅前だけ街に似合わない都会風な駅舎、マーケットなどができたため郷愁が湧きません。
(郷愁のためだけに町が存在しているわけじゃないということはわかっているのですが、、、)
よく談志が「文化程度の低い街に限って立派な建物を建てる」っていうあれにちょっと近いですね。
リニューアルして復興盛り上げようという気持ちはわかるのですが、上層部の一部だけで盛り上がってたんじゃないかという気持ちもあります。

densuke さんのコメント...

PCをメンテナンスに出していたので、コメントがおくれました。すみません。

ゆうさん、女川のご出身だったんですね。
私が撮った写真から見えるようなところにお家があったのですか。何だか言葉になりません。

石巻と女川に行った時のことは、今も鮮明に覚えています。衝撃でした。
特に女川は、瓦礫が撤去された広大な更地が広がる中、建物がいくつか横たわったままで、それを現実の風景として受け入れることができませんでした。そして、ここには人の営みがあったはずなのに、何でこんなに静かなんだ、と痛切に思いました。本当にあの時の海は白波ひとつ立っていなかったのです。この海が全てを飲み込んでしまったなんて、とても信じられませんでした。

震災後自分が感じたことは、小説家の川上弘美が寄稿した文章が代弁してくれています。少し長くなりますが、引用します。

「震災のことを思うたび、申し訳ないと思う。けれど、いったい何に対して?
もちろん、すべてに対してだ。震災と原発事故で傷を負った方々に対して何もできない自分に対して。同時に、自分が何の役にも立たないと嘆く自己憐憫ともいえる気分に対して。どこまでいっても、自分は当事者の方々の傷を理解できないことに対して。そして何より、傍観者として今ここで生きていることに対して。
自分をそんなに責めること自体、自意識過剰だし、自分のことを「なにさま」と思っているのか、である。けれどもやはり今も、わたしは「申し訳ない」と思わずにいられない。」

石巻、女川に行った時の私は、ただの通りすがりの傍観者でした。だけど、あの時思ったことは大切にしていこうと思います。

だらだらとまとまりのないことを書いてしまいました。でも、まとめることなんて不可能ですよね。
ゆうさん、大変でした。今更ながらですが、心よりお見舞い申し上げます。