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2021年8月21日土曜日

松任谷由実『水の中のAsiaへ』を聴きながら

昨日は、松任谷由実の『水の中のAsiaへ』を聴きながら帰る。

1981年発表のミニアルバム。当時のポップミュージックが欧米にしか目を向けていない中で、アジアをテーマにした画期的な作品だ。

 

冒頭を飾る「スラバヤ通りの妹へ」が圧巻。私にとってユーミンの最高傑作である。

インドネシア、スラバヤ通りで出会った15歳の少女との淡い交流を歌う。

歌詞の中に「痩せた年寄は責めるように私と日本に目を背ける」という一節が出て来て、どきっとする。アジアの国々が、戦争中、我が国がした行いをどのように見ていたか、およそ政治的だったとは思われないユーミンのアンテナにも引っかかって来るほどだったと思うと感慨を新たにする。

今、「あの戦争は、欧米の植民地だったアジアを解放する戦いだったのだ」と声高に叫ぶ人が増えた。「文句を言っているのは中韓だけで、台湾やインドネシアの親日ぶりを見よ」と言う人も多い。しかし、そんなことがまやかしであることを、この歌はさりげなく示している。

あの戦争で、日本は東南アジアで獲得した資源を手放す気はなかった。日本が勝っていれば、欧米諸国に取って代わったに過ぎなかっただろう。アジアが解放されたのは、日本が負けたからだ。

昔、妻とシンガポールに旅行した時、博物館で日本軍が現地の華僑を虐殺した事件の展示を見た。ガイドさんが「日本の皆さんは嫌な気持ちになるかもしれないが、それでも見ておいてください」と言った覚えがある。

よく「戦争で亡くなった英霊のおかげで今の日本がある」ということを耳にする。しかし、本当にそうか、と私は思う。正しくは「あの戦争に負けたおかげで今の日本がある」と言うべきだろう。あの戦争に勝って、大日本帝国のままだったら、今のような日本になっていただろうか。基本的人権が尊重され、75年以上も戦争をせずに済んだ日本になっていただろうか。

祖国を守るために彼らは命を捧げた、と彼らは言う。私の家の跡取りはビルマで、私の母方の祖父はニューギニアで戦死した。「祖国を守るため」と言うのなら、実直な農夫であった彼らが、なぜそんな遠くまで連れ出されて死ななければならなかったのだろう。

「祖国を守るため」と飛行機で体当たりをさせられた若者は死に、命令した者の多くは戦後も生き延びて天寿を全うした。美しい物語に酔ってはいけない。命令する側に回る為政者は、英霊に感謝するのではなく、時の為政者が彼らを英霊にさせてしまったことを深く恥じ悔いなければなるまい。今の政権与党の権力の中枢にいる者に、そんな人がいるようには思えない。

 

『水の中のAsiaへ』には「大連慕情」という作品もある。

父が大連から母へ宛てた手紙を見つけ、亡き父に思いを馳せる、というストーリー。大連は昭和初期、日本が中国北東部に建てた傀儡国家、満州国の都市である。

松任谷由実の父、荒井末男氏は2006年、93歳で亡くなった。ちなみに歌詞では「あなたが生きていたらそぞろ歩こう」とあって、「父」は死んだことになっている。(本作発表時は末男氏は存命だった)終戦時、彼は32歳。本業は呉服屋のはずだから、大連にいたとすれば、召集されて行ったのだろうか。(Wikipediaでは「作中の父親像は完全な創作」としている)

これもまた、戦争の匂いのする曲だ。

アジアをテーマにした以上は、戦争とも向き合わなければならなかったということなのだろう。1980年発表の『時のないホテル』に収められている「Miss Lonely」も、戦争で恋人を失った老女の話。当時の松任谷由実の志向が感じられ、興味深い。

その後、彼女は「恋愛の教祖」としてメガヒットを飛ばしていくことになるが、ここで見られた社会性はその頃にはもうなくなってしまった。(だからこそ売れた、とも言えるか)


帰り道の涸沼の風景。



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