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2022年5月25日水曜日

先代遺族から見た八代目正蔵襲名

 かなり前だが「襲名考2」という記事を書いた。五代目柳家小さん襲名問題で、小さん襲名を争った蝶花楼馬楽に、小さんに匹敵する名前を、ということで八代目林家正蔵を襲名させた経緯を書いた。

私は、この二人の襲名を評価する者である。五代目小さんは名人三代目小さんを彷彿とさせる芸と人間の大きさで柳家の隆盛を築いた。八代目正蔵は、三遊一朝譲りの怪談噺、人情噺で、この名跡を本来の芸風に戻した。それはまさに天の配材と言っても過言ではないと私は思っている。

しかし、名跡を譲った七代目正蔵の遺族の視点も存在する。彼ら側の描写が、神津友好著『笑伝 林家三平』にある。それを引用しよう。

 

 世間的には一件落着の襲名騒動であったが、三平の父正蔵が亡くなってまだ一周忌にもならぬうちに、先代の門人でもなんでもない他人の馬楽が林家正蔵八代目を名乗る。

 襲名は借用で、一代限り。将来林家三平が正蔵を名乗るべきときにはいつにても返名するという一札が七代目未亡人、歌の手もとに差し出された。まず異様で強引な解決法だが、五代目小さん襲名をめぐっての争いを無事におさめるためには、他に手がなかった。

 落語界の、ときの長老五代目柳亭左楽までがのり出し、桂文楽と対立する馬楽、それを後押しする浅草の親分山春との間に入って、「まあ一つ、不服だろうが正蔵襲名で納得してもらいたい」「五代目(左楽)に頭を下げられたんじゃ、もう・・・」と頑固一徹の馬楽も折れた。

 そして、そのとばっちりが、身よりたよりもなく心細い母子二人暮らしの三平一家にふりかかり、正蔵の名を貸すことに否も応もなく、一門としての勢力もなく、財力もない足もとにつけこまれて、名跡をとりあげられてしまった。

(中略)

 一代を売った芸名は残された遺族の財産でもある。それを襲名する弟子なり縁故の芸人は、故人の一家なり未亡人なりの暮らしの立つようにしてゆく責任を負う。しかし一代限りの正蔵名跡借りは名前を貸しただけのことであった。

 

理屈から言えば、七代目正蔵襲名自体、協会の分裂騒動がもとで、柳家小三治を名乗る落語家が二人出来てしまい、先に小三治を名乗っていた方が、空き名跡だった林家正蔵を襲名した、といういきさつがある。七代目もやはり「先代の門人でもない他人」だった。八代目が正統な後継者でないとすれば、七代目も同じようなものではないかと、どうしても思ってしまう。

でも、人間は感情の生き物だ。七代目の遺族、海老名家の気持ちも分かる。私の考えとしては、名跡は落語界のもので家のものではないということに変わりはない。ただ、一方で、今まで私は海老名家に対しずいぶん厳しい見方をしていたのだな、という思いも新たにした。

前出の「襲名考2」という記事の中で、私は、三平の死後、八代目が名跡を返しに行った時、七代目夫人が「ずいぶん遅くなりました」と言ったというエピソードを引いた。以前何かで読んで強烈に記憶に残った言葉だったので、それを書くのにためらいはなかったが、最近、quinquinさんからのコメントで、七代目夫人が「こんなに大きな名前にしていただきまして、本当にありがとうございました」と言ったと、八代目正蔵(彦六)の娘さんが証言していることを知った。

私が引いたエピソードは第三者のもので、出典は今では思い出せない。どう考えても、彦六の娘さんの証言の方が事実に近いだろう。自分の不明を恥じたいと思う。

七代目夫人としてみれば、我が子三平が正蔵を襲名せずに逝ってしまった(三平自身が正蔵襲名を断っていたという話もある)失意の中で、言いたいことは山ほどあったろう。しかし、七代目正蔵の妻として、三平の母として、誠実に対応したい。「こんなに大きな名前にしていただきまして、本当にありがとうございました」という言葉は、そんな夫人の矜持が言わせたのだと思う。

そして、その言葉通り、襲名当時のわだかまりを越え、正蔵の名で芸術祭賞や紫綬褒章など数々の栄誉に輝いた八代目に、夫人が感謝の念を抱いていたとすれば、それもまた素晴らしいことである。

7 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

柳家小さんと云う名跡は師弟で受け継がれておりますが、
林家正蔵と云う名跡は五代目迄は直系でしたが、五代目の人が長寿だったせいで、
その後は柳家の傍系の名跡に成ったのでしょうか?

仰られる様に、七代目正蔵の襲名も柳家三語楼門下の柳家小三治が落語協会を出たので、協会側から
小三治を返せと云われ襲名した経緯があるので、八代目正蔵の襲名と似た様な経緯だと思います。

が、八代目正蔵は弟子に真打の時には亭号を変える様に云ったり、
三平に正蔵名跡を譲り、自身は怪談噺を教えて戴いた三遊一朝(この名跡は孫弟子に継承されたが)
を名乗る予定ったというエピソードを聞いた事があります。
これが正蔵の律義さだと云う事を談志も「名跡問答」という本で書いていたと思います。

唯この様な歴史からみると海老名家が正蔵名跡に絶対的な力を持っているとも思えないと思います。


八代目正蔵と五代目小さんの襲名争いは
八代目正蔵は四代目小さん門下だが、圓遊→圓蔵門下から移籍してきた外様 小さん門下の直系
と云うので五代目小さんが選ばれたと云う事なのでしょうか?

又、橘家圓蔵と云う名跡も圓生一門に返すべきなのでしょうか?
八代目(元圓鏡)襲名の時も、圓生夫人に返しに行くと、「どうぞそちらの一門で襲名してください」と
云われたと云うエピソードを聞いた事があります。

densuke さんのコメント...

コメントありがとうございます。
六代目の「今西の正蔵」は、二代目燕枝の弟子ですが、自分で存命中の五代目「沼津の正蔵」にきちんと話をして名跡をもらいに行っているので、まずは正統的な継承だと思います。昭和4年に亡くなっていますが、黒門町の文楽も彼のことは「『居残り』がよかった」と褒めています。廓噺が得意だったようですが、人情噺や怪談噺もやっていたということで、「正蔵らしい正蔵」と言っていいのではないでしょうか。

六代目は燕枝門下、七代目は三語楼門下、八代目は三代目小さん門下ということで柳派が続きましたが、これは偶然でしょう。柳家の傍系とは単純に言えないと思います。

襲名の経緯を考えると、海老名家が林家の宗家然として振る舞うのは、どうしても違和感があります。一方、当代正蔵で三代林家が続いたわけで、もうしょうがないな、とも思います。正蔵の息子も落語家になっていますしね。ただ、こういう風に(あえて言いますが、なしくずし的に)落語家の名跡が世襲になってしまうのは、好ましいことだとは思いませんね。

八代目正蔵と五代目小さんの襲名争いは、外様と直系の争いというよりも、もっとピュアで、五代目小さんの芸が素晴らしく、彼に小さんを継いでほしいと多くの人が思ったからではないでしょうか。
一門の序列としては、当時の馬楽(四代目の前名でもありました)、馬風、さん馬(後の九代目文治)が上にいましたが、五代目になる小三治が継ぐのは、皆、反対でした。ただ、四代目夫人や人形町末広のおばさんなど、小三治に「名人三代目小さんの可能性」を見ていたようですね。それもあって文楽も頑張ったんだと思います。序列なら馬楽が順当だったんでしょうが、ひっくり返すだけの芸の力が五代目にあった、というわけです。

圓蔵の名跡ですか。圓生夫人がそう言っていたエピソードも何かで読んだ覚えがあります。橘家一門がけっこう大きくなったので、その中で継承されていくのが穏当なのでしょう。でも、適任者はいますかね。

Unknown さんのコメント...

御回答有難うございました。
>六代目の「今西の正蔵」は、二代目燕枝の弟子ですが、自分で存命中の五代目「沼津の正蔵」にきちんと話をして名跡をもらいに行っているので、まずは正統的な継承だと思います。

本人が存命中ならそこに、亡くなると遺族に話に行くのが順当なのでしょうか?
唯名跡の管理と云うのはどの様な形でされるのでしょうか?


>六代目は燕枝門下、七代目は三語楼門下、八代目は三代目小さん門下ということで柳派が続きましたが、これは偶然でしょう。柳家の傍系とは単純に言えないと思います。
襲名の経緯を考えると、海老名家が林家の宗家然として振る舞うのは、どうしても違和感があります。

確かに、七代目正蔵師も系統から行くと五代目小さん師と従兄弟弟子に当たるし、落語協会側から
小三治を返せと云われ、その襲名だったので、八代目襲名にそこまで云えるのかとも思えます。
子息が四代にわたって落語界に成ったので、なし崩し的にそうなっているのでしょうか?

襲名は① 一門師弟関係 ②芸の継承 それを受け継いで飛躍して欲しいと云うのがやはり最優先になるのでしょうか?

唯、名跡の流出を防ぐ為に継がせると云うのもあると云う話も聞いた事があります。
例えば九代目桂文治の襲名は、元々上方の名跡だったのを江戸に止めておく為に、
文楽がさん馬に襲名させたりしたと云う例もあると聞いた事があります。

現在は名跡の留め名にあまり拘らない形が多く成って来てますが(談志 志ん朝 小三治は若手真打格の名でそれを通した)その先駆けの方が八代目文楽なのでしょうか?大名跡は他の人に襲名させている事等。

>もっとピュアで、五代目小さんの芸が素晴らしく、彼に小さんを継いでほしいと多くの人が思ったからではないでしょうか。

二つ目の頃より、評価されてましたので、これからの落語界を背負うと見たと思います。

densuke さんのコメント...

名跡の管理ですか。私は関係者ではないので詳しくは知りませんが、本で読んだ限りでは、遺族や一門、協会預かりというのもあるようです。
遺族以外では、特に一門のトップが預かるケースが多いように思います。二代目桂小南が真打になる時、右女助をもらいに八代目文楽の所へ行ったら、「お前なら小南をやるよ」と言われたそうです。小南は文楽の師匠の名前ですが、その師匠の名跡を文楽は預かっていたんですね。
九代目文楽襲名も、五代目小さんに勧められてです。小さんは四代目の死後は文楽の弟子になっているので、師匠文楽の名跡を預かっていたのでしょう。
古今亭志ん生、古今亭志ん朝は協会で預かっていると、何かで読んだことがあります。

襲名は、やはり一門師弟関係と芸風の継承が基本なのだと思います。ただ、一門に継ぐべき人がいなかったり、系統が途絶えたりすると難しくなるんでしょうね。

文楽は、四代目の「デコデコの文楽」が名人の誉れ高く、それなりにステイタスのある名前だったと思います。

留め名を襲名しなかった先駆けといえば、明治の三遊亭圓朝にとどめを刺しますね。本来は圓生になるべきだったのでしょうが、弟子に三代目、四代目圓生を襲名させ、自分は圓朝で通して、遂には圓生よりも大きな名前にしてしまいました。(五代目圓生には圓朝襲名の話があり、六代目も圓朝襲名を望んだそうですが、果たせませんでした。)

匿名 さんのコメント...

「遅うございました」の件は、海老名香葉子氏の「おかみさん」に書かれています。

香葉子氏は八代目正蔵をかなり悪く言っておりますので、どこまで信憑性のあるものかわかりませんが。

尤も、七代目正蔵遺族側と八代目正蔵其々に言い分があると思いますので、本当のところはよくわからないと思います。

densuke さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
densuke さんのコメント...

「遅うございました」のエピソードの出典をお示しいただき、ありがとうございます。
私は『おかみさん』を読んでいないので、誰かのこのエピソードを基にした文章を覚えていたのだと思います。おかげ様ですっきりしました。
香葉子さんは七代目夫人の本音を代弁したのでしょうか。
落語協会分裂騒動もそうですが、立場によって色々な見え方があり、それが私は面白いです。