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2010年9月18日土曜日

佐野へ行く


遅ればせながら、妻の厄払いに、妻子を連れ佐野へ行く。
茨城空港北ICから北関東自動車道に乗り、11時少し前に佐野に着く。
佐野厄除け大師にお参り。
昼は大師様近くのラーメン屋。佐野ラーメンをいただく。
麺は手打ちのちぢれ麺。あっさりとした醤油だし。二人の息子は完食でした。
ただ、以前食べた佐野ラーメンは、もっとスープが澄んでいたような気がするな。
自家製餃子も旨かったよ。
それから、アウトレットへ。
日差しが強く、暑い。結局何も買えず。
帰りに壬生のおもちゃのまちバンダイミュージアムに寄る。
入場料が大人1000円、子ども600円と少々高め。
でも、まあ古今東西色んなおもちゃの展示があって楽しかった。(ガンダムは世代じゃないので、燃えなかったが)
妻はファミコンの「スーパーマリオ」を懐かしがって、大喜びで長男と対戦しておりました。
帰りは友部ICで下りた。時間は大差ない。とすれば、こっちの方が高速代が幾らか安く済む。
帰宅は6時。子どもを風呂に入れ、明太子スパでビール、白ワイン。

2010年9月17日金曜日

文楽十八番

文楽の晩年の持ちネタは、「明烏」「よかちょろ」「船徳」「寝床」「素人鰻」「愛宕山」「鰻の幇間」「王子の幇間」「馬のす」「心眼」「景清」「しびん」「松山鏡」「締め込み」「やかん泥」「厩火事」「按摩の炬燵」「星野屋」「悋気の火の玉」「富久」「夢の酒」「大仏餅」「穴泥」「酢豆腐」「かんしゃく」「干物箱」「つるつる」の28演目しかなかった。
ただ、文楽の持ちネタがこれだけだったというわけではない。
戦後でも「小言幸兵衛」「野ざらし」「品川心中」「お若伊之助」「鶴満寺」を演じたことがあった。戦時中のものでは「子ほめ」の録音も残っている。
(ちなみに「小言幸兵衛」と「品川心中」は大学時代ワゴンセールで買ったテープに入っていた。「鶴満寺」はCD化されている。)
昭和18年刊の『風流寄席風俗』という正岡容の随筆集に収められた「名人文楽」の中には、「芝浜」「九州吹き戻し」を稽古中だと書いてある。自伝『あばらかべっそん』では「三味線栗毛」をものにしたいと書いているし、自分の女を鶴本の志ん生に取られた体験を「刀屋」に生かしたいとも書いている。その他にも『あばらかべっそん』の中には「代脈」や「道灌」を演じた記述もある。
文楽は弟子の柳家小満んに「あたしだって稽古した噺は300ぐらいあります。」と言ったという。そして、こう付け加えた。「富士山も裾があって高いんですよ。」
つまり、文楽の持ちネタは、志ん生や圓生に匹敵する可能性があったということだ。しかし、彼はそれを約10分の1にも絞り込んだのだ。
文楽がここまで持ちネタを絞り込んだのは、その完璧主義にあったのに間違いはなかろう。彼はよく「私のネタはすべてが十八番」と胸を張ったが、逆に言えば十八番しか演らなくなったのだ。いいものしか出さない。いや出せない。名人という称号は、そういう形で文楽を縛ったのかもしれない。
もうひとつ、色川武大が「名人文楽」(奇しくも正岡と同じタイトルだ)という文章で興味深いことを書いている。文楽の演目が少ない理由は「自分の命題に沿えない話は演じない」からだ、というのだ。
文楽のネタが偏っているというのは、誰もが指摘するところだと思う。わずか28演目の中に、盲人の噺、幇間の噺が占める割合は大きい。(春風亭小朝は、主人公が一方的に虐められる噺が多いと言っている。)自分の命題に沿う噺しかできないとなれば、自ずから似た傾向の噺が多くなるのは仕方がないだろう。文楽はその点で言えば、確かに不器用だった。
しかし、こうも言える。文楽は、自分が同化できる噺しか演らない、いわば「一人称の落語家」だったのだ。(三遊亭圓生は「三人称の落語家」だったと思う。登場人物から距離を置き、全ての人物を巧みに演じ、操って見せた。)だから、文楽の噺は、型は決まっていても、熱く躍動し、聴く者の心を揺さぶるのだ。

2010年9月8日水曜日

桂文楽 昭和30年代

昭和30年代、落語は黄金時代を迎える。その主な舞台となったのはホール落語だった。ホール落語を定義すれば、椅子席の大きな劇場(ホール)を用い、厳選された落語家の落語(主に古典)を鑑賞する、といったものになろうか。ホール落語は、寄席のほの暗い「悪所」というイメージを一新し、落語を鑑賞に耐える芸術にステップアップさせた。
さらに、このホール落語のブランドイメージを一挙に高めたのが、昭和31年にスタートした「東横落語会」だった。八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭圓生・三代目桂三木助・五代目柳家小さんの5人をレギュラーメンバーに固定。この5人が最も良質な古典落語を演じる者だということを強烈に印象づけた。(もちろん、それはプロデューサーの湯浅喜久治及びその師安藤鶴夫の価値観に他ならなかったが。)
人気者六代目春風亭柳橋・三代目三遊亭金馬は、この舞台では冷遇された。それは、第一次落語研究会における初代三遊亭圓遊の如きものだったのかもしれない。
そんな中、文楽と志ん生を双璧として、圓生がめきめき伸びてくるという図式が顕著になってくる。
文楽は若手真打ちの「睦四天王」の時からずっと売れっ子だったが、志ん生と圓生は長い低迷期を過ごしていた。志ん生は生来のずぼらから干され、圓生は気障なばかりで下手だと酷評されていた。二人は戦争末期満州に渡り、生死をかけた過酷な経験をする。その経験が芸に膨らみを持たせた。帰国後、志ん生人気が爆発、一挙に文楽と肩を並べる。(それ以前から、二人を東京落語界の最高峰と評価していた正岡容のような人はいた。)圓生は猛追してくる小さんを振り切るように自らの芸を伸ばしていく。オールドファンは以前の下手だった圓生のイメージに引きずられる感があったが、若い層は彼を熱狂をもって迎えた。
それに加えて、東大、早稲田といった一流大学で落語研究会が相次いで創立、落語はよりアカデミックなものになる。早稲田の教授、輝峻康隆と興津要は、桂文楽に昭和落語の最高峰という高い評価を下した。それは多分、文楽の一言一句を磨き抜く厳しさと文学性が大学のアカデミズムに合っていたのだろう。純文学の芥川賞を大衆文学の直木賞より重きを置く感覚に似ているのかもしれない。芸術祭を受賞したのは、文楽・志ん生・圓生の順だったが、それがそのまま大衆の人気を反映したものではなかった。後に圓生自身、「人気投票をすると、志ん生・圓生・文楽の順でした。」と言っている。それは現在においても同じかもしれない。
昭和20年代から30年代にかけて、文楽は昭和の名人としての評価を高めていった。そして、その過程の中で持ちネタを絞り込んでいった。もともとネタ数の少ない人だったが、自分で満足できるものしか演らなくなっていく。小心で臆病な文楽にとって、名人の称号は、いいものしか演じられないといったプレッシャーを与えるものだったのかもしれない。
志ん生の、セコな噺でも平気で高座にかけるような図太さは文楽にはなかった。確かに文楽の持ちネタは全てが十八番だったが、逆に言えば十八番しか演れなかったということだろう。エリートのひ弱さがそこに見えるような気がしないでもない。

2010年9月2日木曜日

桂文楽 昭和20年代

昭和21年、四代目柳家小さんが落語協会の会長に就任する。しかし、彼は翌年、愛弟子小三治(五代目小さん)の真打ち昇進披露で「鬼娘」を演じた後、上野鈴本演芸場の楽屋で急逝。後任の会長には八代目桂文治が就いた。(昭和26年の東京新聞社刊『藝談』では文楽を副会長と紹介している。)
昭和24年、安藤鶴夫『落語鑑賞』刊行。安藤の筆によって文楽の噺が活写され、その名人芸が賞賛された。
昭和26年以降、民放ラジオ局が相次いで創設される。この草創期のラジオで、落語は有力なコンテンツとなった。昭和28年、東京放送(TBS)は、桂文楽・古今亭志ん生・三遊亭圓生・柳家小さん・昔々亭桃太郎と専属契約を結ぶ。(これには演芸プロデューサー出口一雄の功績が大きい。)それを皮切りに民放各局の落語家争奪戦が起きたが、その契約金によって落語家の生活が向上したという。
文楽の出口に対する信頼は絶大で、TBSを「うちの会社」と呼び、背広(文楽は洋装を好んだ)には常にTBSの社員章を付けていたという。出口はTBSを退社後。出口プロダクションを設立。文楽を始め多くの落語家のマネジメントをした。
昭和29年、文楽は「素人鰻」の口演により、落語家初の芸術祭受賞を果たす。
翌昭和30年には八代目文治が没し、文楽が落語協会会長に就任。こうして文楽は名実共に東京落語界のトップに立った。
六代目春風亭柳橋・三代目三遊亭金馬に、人気という点では一歩も二歩も譲った文楽が、これほどまでに評価されたのは、正岡容と安藤鶴夫という二人の落語評論家の存在が大きい。
正岡は昭和18年刊の『随筆寄席風俗』に「名人文楽」という文章を載せている。恐らく彼が、最も早く文楽に名人の称号を与えた一人であろう。
安藤は『落語鑑賞』以後、文楽賞賛の文章を次々に書いた。そして、彼は芸術祭の選考委員になるなど、業界で大きな影響力を持つようになる。文楽が落語家初の受賞を果たした昭和29年の芸術祭で奨励賞に輝いたのは、やはり安藤が肩入れしていた三代目桂三木助。しかも受賞した演目の「芝浜」は、安藤と三木助が二人三脚で練り上げたものだったのである。その安藤が柳橋・金馬を無視し、文楽を手放しで賞賛したのだ。名人文楽という評価を定着させるのには、大きな追い風になったに違いない。
もちろんそれだけではない。昭和20年代は文楽の50代後半から60代前半にあたる。年齢的にも絶頂期にあった。端正で艶があり、しかも迫力のある文楽の噺は、聴く者を魅了せずにはおかなかっただろう。

2010年8月28日土曜日

草津旅行


両親、妻子を連れて、草津に1泊旅行に行く。
行きは、常磐・外環・関越のルート。
渋川市内で昼食。お母ちゃんが一人でやってる普通の食堂に入ったのだが、「いらいっしゃい」もなければ「お待ち遠様」もなし。ざるうどんは、まるでスーパーで買ってきたうどん玉。腰も何にもない。ここまで外れれば、かえって気持ちがいい。
ホテルは、「じゃらん」で見つけた。ネットの口コミでは「新しくないけど、掃除が行き届いていて感じがいい。料理は特筆すべきものはない。子どもを遊ばせる設備は充実している。」とあった。その通り。ネットの口コミ、恐るべし。
想定外だったのは、ちょうどこの日、天皇・皇后両陛下がこのホテルにお泊まりになったことだ。警備の警官は1800人だという。まあものものしかった。おかげで両親と長男のテンションは上がりまくり。妻は父に呼び出され、お出掛けになる両陛下のご尊顔を拝することになったという。長男は皇后陛下に手を振って頂き、「写真は撮れなかったけど、心のシャッターは押したよ」などと洒落たことを言っていた。
ホテルではプール、ビリヤード、迷路など思い切り遊ぶ。次男はビリヤードをやったのがよほど嬉しかったのか、一生懸命回らぬ舌で祖父母に説明していた。
夜は湯畑に行く。足湯が熱い熱い。ライトアップされた湯畑は幻想的でよかった。
2日目は、水沢うどんでうどんリベンジ。旨かった。水沢観音にお参りし、おもちゃ博物館を見物。北関東自動車道で帰路につく。
写真は草津のホテル。黒塗りの車が並ぶものものしい雰囲気。

2010年8月19日木曜日

向ヶ丘遊園


大学の最寄り駅は、小田急線の向ヶ丘遊園だった。

駅の南口から多摩丘陵の上にある校舎まで、徒歩で20分余り。最後は「心臓破り」と呼ばれる急坂があった。いやあこれには鍛えられた。「1年と4年では足の太さが違う」という俗説があったほどだ。

当時はまだ遊園地があったし、駅から遊園地を結ぶモノレールもあった。

写真は、そのモノレールの近くにあったマーケット。「戦後」の匂いがしますなあ。

2010年8月14日土曜日

吉川潮『戦後落語史』

著者は吉川潮。茨城県出身というのも親近感を感じたし、奥さんの柳家小菊は大好きな芸人さんだ。ファンとまでは言わないが、落語に関する物書きとしては気になる存在だった。
『突飛な芸人』『江戸前の男』『浮かれ三亀松』は好きだった。しかし、『芸能鑑定帖』辺りから違和感を持ち始めた。
立川談志及び立川流に対する手放しの賛美。そしてそれを自らが立川流の顧問である以上当然だと言う。確かに人間である以上、完全な客観性など持ち得まい。ただ、評論・批評を名乗るからには、常に自らの客観性を意識するというのが誠実な態度ではないか、と私は思う。それをハナからそう言われてしまうと、正直鼻白む。
そんなわけで、しばらく彼の著作からは遠ざかっていたが、『戦後落語史』というタイトルで「ちょっと読んでみるか」という気になった。まさか通史ともなれば、そうそう無茶もできないだろう。資料としても使えるかもしれない。そう思って遅ればせながら読んでみたのだ。
さらっと読む。いつもの調子だ。
あとがきにこうあった。担当からは吉川史観で書いてくれと言われた。だから「立川流史観」になっている。それは自分が談志シンパで立川流顧問だから。当然、談志一門についての記述が他の一門より多いのも仕方がない。
それなら『吉川流戦後落語史』というタイトルにして欲しかった。
芸術協会に関して言えば、十代目桂文治・三笑亭夢楽・二代目桂小南・四代目春風亭柳好・三遊亭小圓馬辺りの記述に乏しい。戦後の芸術協会を支えた彼らを、もうちょっと評価してもいいだろう。
現在の落語協会寄席派のエース、柳家さん喬・柳家権太楼については完全無視。当代きっての名人柳家小三治についても通り一遍のことしか書いていない。
金原亭馬治の十一代目馬生襲名の記事では、本来なら一番弟子の伯楽が継ぐべきだが、彼には人気も実力も人望もなかった、というようなことを書いている。あるブログにも書いてあったが、これは、伯楽が『落語協団騒動記』で談志を非難したことへの意趣返しだろう。こういう狭量さは著者の株を下げるだけなのに、残念だ。
八代目桂文楽や三代目桂三木助を賛美する一方で、初代柳家権太楼や三代目三遊亭金馬を露骨に嫌った安藤鶴夫を、立川談志は痛烈に批判している。その安藤鶴夫と著者が同じ轍を踏まないことを私は祈る。
著者の立ち位置は鮮明だし、歯に衣を着せぬ論調も痛快に感じる人には魅力的だろう。だが、私はもう少し距離を置かせてもらう。そして、そのように感じる人も私だけではあるまい。