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2021年6月22日火曜日

桂文楽の息子

1969年(昭和44年)終戦記念日の朝日新聞に、戦時未帰還者の記事が載っている。この時点で、消息不明の未帰還者が2万2千人おり、そのうちの2千人の家族が「戦時死亡宣告」を拒んでいるという。

その中に、八代目桂文楽がいた。 記事の一部を引用する。


 あと継ぎの期待をかけた長男並河敏男さんが敗戦直前、大陸に渡ったまま、まだ帰らない。「ウチの坊主といっしょに遊んだお隣の坊ちゃんが立派な店主になられて、みかけるたびに思いますよ。あれも無事でいれば三十九歳。明るい子でした。踊りも三味線もスジがよくって、ひとかどの芸人にゃなれましたよ」と文楽師匠(七六)は東京・上野の自宅で、アルバムを手に語る。


文楽は長年連れ添った寿江夫人との間に子を生すことができなかった。親戚から養子をもらい後継ぎとしたのが、この敏男である。


 敏男さんは二十年七月初め、内地を離れた。十五歳だった。電波探知機関係の軍属を志願、採用されたのだ。門司港から船出する前、敏男さんから便りが届いた。なにがしかのお金が添えてあった。「うれしいのなんのって、初めて息子が送ってきた“おあし”でしょ。家中大騒ぎで、神だなにあげて・・・」。

 それきり消息は途絶えた。二十一年帰還した同僚の話では、敏男さんは、栄養失調のため、奉天駅から列車からおり、近くの病院に収容されたという。厚生省の調査では、この病院の退院者名簿に敏男さんの名がない。調査資料の最後のページに「死亡確実」の朱印がある。

 が、文楽さんは「最期をみとった人でも現れない限り」と、戦時死亡宣告の手続きを拒む。「坊主を親が殺せますか」。生きていると信じることが親の生きがいなのだという。


戦後24年経ったこの日も、文楽は敏男が技術者だったことで現地に残され「かみさんももらって、子どもでもつくって、親のあたしに顔向けができないってんで、手紙もよこさない」と半ば自分に強いるように信じていた。いや信じようとしていた。


文楽は戦後になって行者をしている四代目小さんの妹に見てもらった。すると彼女は神がかりになってこう言ったという。『あばらかべっそん』からその場面を引用する。


「息子さんのことは申し上げたくない。泡沫(うたかた)のようなもので、まだはっきりとはしないが—」

といっているうち、今度は倅の霊が来まして、

「いま私は金魚になっています。しかし幸せでいるから心配しないでください」

と奇妙なことを申しました。


宇野信夫は「塙保己一と桂文楽」という文章の中で、同じ場面を戦争中のこととしてこんな風に書いている。

 

 四代目小さんの妹が雑司ヶ谷で、戦前から拝み屋をして相当にさかっている。

 戦争中、文楽は見てもらったことがある。というのは、文楽の養子が、志願して出征した。安否を気づかっていると、誰かが、四代目小さんの妹の話をしてくれたので、雑司ヶ谷へ行ってみた。小さんの妹は、ややしばらく拝んだあと、

「もくず(※傍点あり)と出ました」という。

 もくず—もくずというのは、なんのことだろうと思っていると、やがて養子の船が沈没して戦死したという知らせがきた。成程、海の藻屑となり果てたのである。


『あばらかべっそん』の文楽の話とは、かなりの相違がある。時期も違うし、場所も違う(『あばらかべっそん』では戦前は新宿、戦後は高幡不動尊そばとしてある)。また、この話だと敏男の戦死公報が届いたことになって、先の新聞記事とは事実の根底が違っている。船が沈んだことも『あばらかべっそん』の中で「私の船は機雷にかかって沈みましたが、幸いにして私は助かりました」という手紙が来たと書いている。同じネタでこれほど違うのはなぜなんだろう。


文楽は最晩年になって敏男の名を自分の家の墓石に刻み供養をした。自らの死を覚悟してのものだったと思う。

あの新聞記事から2年後のことであった。

2021年6月19日土曜日

雨の土浦散歩

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ、スクランブルエッグ、納豆。

妻は仕事、次男は土曜授業。

長男と図書館に行き、そのまま土浦へ行く。

久し振りに古本屋に行く。まさに宝の山。大西信行『芸人もしくはエンターテイナー語録』『ガロ 荒木経惟特集号・1994年7月号』を買う。

雨の中、しばし土浦散歩。



昼は中城通り、吾妻庵総本店。もりそばの大盛を食べる。

長男はざるそば。


おっ、格子を新しくしましたな。

腹ごなしに駐車場までぶらぶら歩く。






モール505もちょっとだけ。



「半分、青い」って土浦でロケやっていたんだ。

妻と夕方ビール。

夕食はピザ、新じゃがの蒸かしたので白ワイン。食後は妻と赤ワイン。

寝しなに焼酎。

2021年6月15日火曜日

2010年7月の日暮里散歩

しばらく東京散歩もしていないなあ。

昔の写真を引っ張り出して懐かしむことにしよう。

2010年7月、日暮里駅で降りた。東口から歩き出す。

太田道灌公がお出迎え。
しいたけがあおり食らったような帽子を被っております。

 
駅前にあったイカすお店。

日暮里から根岸へ向かう。

日暮里エリアには韓国料理屋が多かった。


石野真子だよね。かわいい。
と思ったら、浅田美代子でした。

「東京ねじ会館」ですよ。

喫茶店のようです。

根岸柳通り交差点にある肉屋さん。

根岸の蕎麦屋さん。正蔵・三平兄弟の扇子。

竜泉にある朝日弁財天。

弁天様のお社は撮っていないけど、この建物には写欲がそそられたんだな。

これもその付近。このフォントに惚れた。

竜泉まで歩き、そろそろ上野に向かう。

入谷の辺り。
多分、この辺でカツカレー食ってビール飲んだんだ。

上野に出て、鈴本演芸場の昼席を見た。


これから東京もオリンピックや何やらで騒がしくなりそうだ。いつになったら落ち着いて街歩きが楽しめるのだろう。

 ※ ちなみにこの時のブログ記事はこちら。「日暮里を歩く」

2021年6月12日土曜日

鹿島神と蝦夷征討

前回の記事で、宮ケ崎の鹿島神社が大同2年(807年)創建と書いていて、はたと気づく。

大洗磯前神社の創建が斉衡3年(856年)。鹿島神社の方が歴史が古い。

また、小美玉市下馬場にある鹿島神社も、やはり大同2年創建だ。調べてみると、この年は那須茶臼岳や尾瀬、蔵王で噴火の伝承が残り、前年には磐梯山も噴火を起こしたという。そうした自然災害に加え、時の平城天皇が健康祈願を全国に命じてもいる。寺社が多く建てられたとしても不思議はない。

東北各地の神社には大同2年創建がわんさとあり、しかも鹿島、香取の軍神を祀るものが多いという。当時は坂上田村麻呂による蝦夷討伐が行われた直後で、それとの関連を指摘する記事も目についた。

常陸国設置が大化2年(646年)、大化の改新の翌年だ。大和朝廷の中央集権化と同時に常陸国は生まれた。常陸守だった藤原宇合が後に征夷大将軍になったことからみても、ここ常陸が征夷、つまり蝦夷征伐の軍事拠点になったのは明らかだ。出雲の国譲りで大きく貢献した、鹿島・香取の軍神に対する信仰がそれを後押ししたことも想像に難くない。(『常陸風土記』の記述では天智天皇の御代に鹿島神宮整備が行われたと明記されている)そして、鹿島神が正三位となったのは宝亀8年(777年)。宝亀5年(774年)からは38年に及ぶ東北地方で大和朝廷と蝦夷との戦争が始まっていた。

延暦21年(802年)に蝦夷の族長アルテイとモレが、胆沢(現岩手県奥州市)で500人を率いて降伏、坂上田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず二人は処刑され、戦闘は一応の終結を見た。蝦夷征討自体は弊伊村(現岩手県遠野市・宮古市・上閉伊郡・下閉伊郡及び釜石市の大部分)征討をもって弘仁2年(811年)に終了する。(ただ、その後も蝦夷による反乱は何度かあった。弊伊村(閉伊郡)の完全制圧は延久2年(1070年)、源頼俊らによる延久蝦夷合戦を待たなければならない)

大洗磯前神社は蝦夷征討終了から約半世紀経った斉衡3年(856年)に創建された。その大洗磯前神社で繰り返された出雲の国譲り神話を再現する神事は、地方の王を大和朝廷が屈服させるという点において、そのまま蝦夷征討とオーバーラップしてはいないだろうか。軍神鹿島神の力を讃えるのは、出雲の国譲りにおいてだけでなく、陸奥まで制圧したことをも含んでいるように、私には思えるのである。


大洗磯前神社、神磯の鳥居。
ここに出雲神である大己貴命と少彦名命が降臨したといわれている。


鹿島神宮東の一の鳥居。
鹿島神は目の前の海から上陸したとされる。


2021年6月10日木曜日

神明雷神社と鹿島神社

 先日記事にした、大洗磯前神社の八朔祭で活躍する、茨城町網掛の神明雷神社と宮ケ崎の鹿島神社を紹介しよう。

まずは網掛の神明雷神社。

集落にある小高い丘の上に神社はある。


境内はきれいに整備されているが、案内板などは一切ない。

涸沼を見下ろす。

この階段を上る。ロケーションとしては大洗磯前神社に似ているか。

お次は宮ケ崎の鹿島神社。網掛からはわずか数百メートルの所にある。

一の鳥居。

二の鳥居。

拝殿。

本殿。

昭和56年、拝殿屋根替の時に建てられた石碑。

こちらは明治33年の神社改修の時に作られた石碑。

この長い参道を見よ。

鹿島神社の方には境内に石碑があり、故事来歴を丁寧に解説してくれている。

創建は大同2年。鹿島神宮より分霊を迎え近隣七ケ邑の村社とした。大洗磯前神社の末社といわれているが、これを読むとまさしく鹿島神宮の流れをくむ神社であることが分かる。

八朔祭については以下のように書かれている。

「往古より斎行いたしおります大洗神社へ渡御の八朔祭の御儀は年代不詳なるも鹿島神宮より海路渡御せるも道遼遠にして且又風雨にと遭へ困難を窮めしこと屢々にして當神社に代行せられ現今名のみ残す」


八朔祭は「出雲の国譲り」を模した祭事である。では、なぜ出雲から遠く離れたこの地で、それが行なわれているのだろう。

ここで私はこの常陸国が、かつて朝廷による陸奥征服の最前線基地であったことに思いつく。鹿島の神は出雲国譲り神話の主役である武神だ。鹿島神宮の拝殿本殿は、他の神社と違って北を向いて建てられており、それも陸奥へのにらみを利かせる意味合いがあるという。

もしかしたら、国譲りの神事は、陸奥征伐のためのものではなかったか。もっと踏み込んで言えば、この神事のために大国主神を祀る大洗磯前神社は建てられたのではないか。

あくまで私の妄想に過ぎない。でも、こういう妄想をふくらませるのは楽しい。

2021年6月6日日曜日

あじさいが咲く

昨日の日記。

朝、パン、牛乳、チキンナゲット。

散歩がてら床屋に行く。帰って、ビリー・ホリデイのレコードを聴く。


妻は仕事。次男は文化祭で学校に行く。長男と図書館に行く。

昼は長男と和風きのこパスタを作って食べる。

夕食は春巻、マカロニサラダ、たこ焼きでビール、酒。

食後に妻は赤ワイン、私はアイリッシュウィスキーを飲む。

あじさいが咲き始めた。

栗の花も咲いた。




今日の日記。

朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、納豆。

次男は文化祭で学校に行く。

妻と長男でイーアスつくばに行く。

朝日新聞の書評欄に載った、萩尾望都の『一度きりの大泉の話』が、くまざわ書店にあるのではないかと当たりをつけて行ったのだが、これが当たり。一冊だけ残っていたのを、すかさずゲットする。

昼はフードコートのリンガーハット。長崎ちゃんぽんに半チャーハンをつける。




1時頃帰る。半日かけて『一度だけの大泉の話』を読了。夢中で一気に読んでしまった。

感想はあえて書かない。お勧めもしない。萩尾望都、魂の叫び。いや彼女は叫んではいない。封印した傷に何とか向かい合いながら訥々と語る。私も同じような体験をしているから、読んでいてつらい。つらくても萩尾望都は語ったのだ。語らなければならなかったのだ。それが胸を打つ。



夕食は鶏の唐揚げ、ハムサラダ、にんにくの丸揚げ、ポテトフライでビール、酒。

食後に白ワイン。

2021年6月2日水曜日

風柳の持ちネタ⑫ 『もう半分』

 大学に入る前、2度父に寄席に連れて行ってもらった。どちらも上野鈴本演芸場、どちらも芸術協会の興行だった。

最初はNHK「お好み演芸会」の収録があった時。トリは六代目春風亭柳橋。柳橋は『山号寺号』を軽く演じた。最後は柳家小三治司会の「はなしか横丁」という大喜利だった。

2回目のトリは五代目古今亭今輔。私は当時の芸術協会のツートップの噺を体験することができたのだ。

今輔はこの時十八番の『もう半分』を演じた。すごかった。今輔はお婆さんものの新作で売れていたが、私は子ども心に、こっちの方がずっといい、と思ったものだ。

 

『もう半分』を持ちネタにしたのは、大学を卒業してからだ。冬合宿に遊びに行って、そこでネタおろししたのだった。場所は伊豆長岡の東屋旅館。大広間を暗くして口演したのだった。嫌なOBだね。

その時は柳家小三治のテープで覚えた。今輔の型だろう。じいさんが飲む居酒屋は永代橋のたもとだった。

 

今回、金原亭馬生の型で覚えなおした。馬生の『もう半分』は千住が舞台である。千住も千住大橋の南側、現在の南千住だ。

南千住はブログの読者であるmoonpapaさんの地元、私も案内していただいて街歩きをしたことがある。やはりその空気を吸った街は違う。噺の中に入り込んでいける。

また、馬生の『もう半分』がいいのだ。滋味深い。居酒屋の亭主が、八百屋の爺さんに蕗の煮たのを出す場面なんかいいんだよなあ。

 

『もう半分』とはこんな噺である。

 

「もう半分」「もう半分」と酒を飲んでいるうちに娘を売った金を置き忘れてしまった八百屋の爺さん。慌てて戻るが、居酒屋夫婦にそのまま猫ばばされてしまう。失意の爺さんは身を投げて死ぬ。

その金で居酒屋夫婦は店を買い、商売は繁盛する。やがておかみさんは妊娠。ところが、爺さんの祟りからか、あの爺さんそっくりの赤ん坊が生まれた。母親は狂い死に。乳母を雇っても赤ん坊怖さにすぐ暇を取ってしまう。

赤ん坊は夜な夜な行燈の油を飲んでいたのだ。自分の目でそれを確かめた亭主は、思わず赤ん坊に向かって叫ぶ。「おやじ、迷ったな!」

赤ん坊は振り向いて亭主にこう言った。「・・・もう半分」

 

出てくるのは弱い人間ばかり。八百屋の爺さんは酒に負け、居酒屋の亭主は人はいいが女房に負ける。女房は冷酷だが、赤ん坊を一目見るとあっけなく死んでしまう。

 

それにしても救いのない噺だ。

この赤ん坊はこれからどうなるんだろう。身を売った爺さんの娘はこれからどうなるんだろう。そんなことは誰も教えてくれない。演者ですら分からない。「もう半分」でおしまい。ストーリーは投げ出されたまま回収されない。これが落語なんだ。改めて思う。落語はすごい。