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2016年4月8日金曜日

広瀬和生『落語評論はなぜ役に立たないのか』

『大人の落語評論』で批判されている(名指しではないが多分間違いないだろう)、広瀬和生の『落語評論はなぜ役に立たないのか』を再読してみた。
彼の戦後の落語史観はこんな感じ。 

戦後の文楽・志ん生の時代、安藤鶴夫を中心に「古典落語」という概念が成立する。その後も、圓生・正蔵・小さんから志ん朝・談志といった古典派の名手が落語界を牽引し、「古典落語」は、トップブランドとして揺るぎない地位を得るに至った。と同時に、いつのまにか「古典落語とは伝統の継承である」という理念が先行し、「教わったものをそのまま演じるのが正統派」という間違った評価が下されるようになる。その結果、つまらない演者が増え、落語は一般客から背を向けられるようになった。事実、1990年代には寄席に閑古鳥が鳴き、テレビからは落語番組が消える。
一方、落語界の風雲児立川談志は立川派を創設、「己を語る落語」で演芸ファンだけでなく、幅広い観客に感動を与えた。そして談志の薫陶を受けた志の輔・志らくといった面々が「自分の言葉で落語を語る」ようになり、立川派は支持を広げていく。
しかし、個性の強い談志は敵も多い。談志が嫌いな寄席派は立川派を認めなかった。立川派の落語家を、寄席での修業を経験していないことを理由に切って捨てた。そして、彼らが一般の観客に評価され始めると無視を決め込んだ。先鋭的な、今日的に面白い落語を演じる立川派を無視し、「教わったものをそのまま演じる」演者を「本寸法」として持ち上げる。こうして守旧派の評論家は、落語評論家の務めである「誰が面白いか」の情報を的確に発信することを放棄し、「役に立たない落語評論」を垂れ流すだけの存在になったのだ。

さすが東大工学部卒。論理は明晰、すっきりしてる。 筆者は1960年生まれ。『大人の落語評論』を書いた稲田和浩と同い年。ついでに言えば私も同年代だ。
同じ時代を生きてきた者の一人として、大筋の流れとして間違いはないとは思うが、どうも結論ありきの印象は否定できない。
まず、守旧派が立川談志及び立川派を排斥したようなことを言っているが、ちょっとイメージ操作の匂いがする。私の印象としては、談志や吉川潮、志らくといった人たちの、寄席派の落語家に対する攻撃の方がもっとすごかった。談志の提唱する落語観こそが正当で、寄席なんて生温い環境でしかない。小さんや志ん朝を批判し、小三治を黙殺し、さん喬・権太楼など存在しないかのような論陣を張ったのは、談志を筆頭に、立川派及びそのシンパではなかったか。そして、その結果影響を受けた立川原理主義者を多く輩出することになったのではないか。
確かに当時、落語は危機的状況にあったのだろう。事態を打開し、新しい価値観を浸透させるためには劇薬が必要だ。それには敵を作り、それを叩くのが手っ取り早い。だけど、それで傷ついた人は多い。それによって守旧派と言われた人たちが態度を硬化させたとしても、それはそれでしょうがないんじゃないかと思う。
それともう一つ。広瀬もまた、守旧派守旧派と言うが、それが誰を指すのか明らかにしていない。彼らの言説の出典も明らかにしようとしない。批判するなら正々堂々と批判したらいいじゃないか。

広瀬は年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に接しているという。その蓄積は重い。それだけに、いまだに「昭和の名人」のことしか語ろうとしない、守旧派が腹に据えかねたのだろう。
新しい落語ファンのために「役立つ落語評論」が必要だ、という主張も理解できる。言ってることは間違いじゃないし、ベスト10として選んでいる落語家も納得できる。落語の間口を広げるためによく頑張っていると思う。
ただ、誰だかよくわからない敵を叩くことはもうやめにしないか、とだけ私は言いたいのですよ。 

付記。先日、本屋で志らくの本を立ち読みしてたら、「師匠談志は、それまで文楽・志ん生だった世間の評価を、志ん生・文楽に逆転させた。私は志ん朝・談志を、談志・志ん朝にさせたい」みたいなことが書いてあった。いいよもう、そんなこと・・・。

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