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2016年8月20日土曜日

出口一雄の死

そろそろ出口一雄の死について語らなければならない。
出口の最期については、京須偕充もほとんど書いていない。
『鬼の眼に涙』では最後に「昭和51年2月の寒い朝、出口さんは事務所で斃れたのである。」とあるだけだ。
『落語名人会夢の勢揃い』ではもう少し長い。「出口一雄は桂文楽没後5年足らずの1976(昭和51)年初めに急死した。下谷の寺で営まれた通夜の席には多くのはなし家が集って陽気に酒を飲んで騒いだ。葬儀には六代目春風亭柳橋も圓生も参列していたが、思えばこの人たちに残された月日も短いものだった。」と書いている。

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出口一雄は、昭和51年2月15日、68歳で亡くなった。(この日付を、私は出口の姪、Suziさんに教えてもらった) 亡くなった時のことをSuziさんに訊いた。
Suziさんは次のように語った。

「死亡時の話なのですが本当にチョコッとしか知らないんです。誰か落語家サンに仕事のスケジュールの事で電話をしているうちに倒れたんです。突然応答がなくなり、その芸人さんはビックリして、・・・。倒れてから救急段階まではちょっと間はかかったと思います。(電話の相手の芸人さんは、私は知りません。) 『倒れた』と連絡が入り、父は飛んでいきました。
帰宅するなり、『あいつは死ぬぞ。持たん』怒ったような調子で父は言いました。 そして、私は次の日父に連れられて病院へいきました。弟や母は自宅に居ていきませんでした。妹はもう結婚していましたので子供の世話で忙しい生活でした。
父の言葉通り、2日後(3日目だったかな)、ぐうぐう高いびきで寝て、そのまま逝きました。
叔母はショックで、どうしてよいか分からずうろたえていました。
叔母の妹の旦那さんが細々とした用事に走り回り、叔母の姉や一番下の妹達が彼女を支えていました。
前々から父は『兄貴、少し飲むのも食うのも考えろ』と言ってはいましたが、聞く耳など持たぬ伯父でした。(医者の父は伯父に会うときは、必ず聴診器と血圧計を持って会いに行っていました。喧嘩ばっかりするそう仲の良い兄弟ではなかったですが、其処は兄弟、伯父も『こいつは医者としちゃ兄貴の俺が言うにゃなんだけど、腕はいい。だけど金儲けはゼロ』と言って信頼していました。だから多くの芸人さんを父のところに送ったんだと思います。親父の自慢をするなら、オセイジは言わない、金の事より、喧嘩しても患者にはズバリとモノを言っていた良き親父で、医者でした)
『何言ったって文楽さんが逝っちゃってからは聞こうとしなかったからなあ』そんなことも父は言っていました。全くのメチャクチャでした。そしてこんな結末を迎えたのです。」

本当に突然、出口一雄は逝った。状況を見ると脳溢血らしい。血圧はもともと高かったのだろう。しかも出口は文楽の死後、昼から酒を飲むようになった。それが寿命を縮めたのは明白である。Suziさんの父上の「何言ったって文楽さんが逝っちゃってからは聞こうとしなかったからなあ」という言葉は重い。
大西信行は、最後の高座で絶句し、その半年後に死んだ文楽にことを「あれは自殺だったのではないか」と書いている。表面上は病死でも、既に生きる意志を失っていたという意味において、大西は「自殺」という言葉を使った。ならば出口の死も同様ではなかったか。出口一雄は、文楽の後を追ったのだ。

 Suziさんは出口の葬儀についても話してくれた。

「浅草の遠縁の善照寺で執り行いました。300人だか500人だかの方々が来てくださったと聞いていますが、よく解りません。
兎に角花輪だらけで、それで大変なことが起きました。当時牧伸二は人気絶頂期でした。泉ピン子は彼の弟子でした。彼女はウイークエンダーのレポーターの一人で、あの話しっぷりで、少しずつ知られるようになってきた頃でした。しかし、牧伸二は彼女の師匠で人気も格も雲泥の差。そのピン子の花輪がとんでもない上段に置いてある。これから葬儀の読経って時に見つかったんです。それがドカンと上段も上段に飾られてあるんです。芸人社会ってのは、上下の差は天と地の差。大変だーー!!と降ろすことに。しかし、花輪、花輪のスタンド、花束、本堂の階段、周囲も花輪だらけでびっしりの飾り付けです。はずすだけで一苦労。それを又降ろすのに一大作業。若い二つ目サンくらいの落語家連中が必死の作業で頑張りました。そして何分か予定より遅れて、やっとこ読経が始まったのを覚えています。
親戚は控え室からあまり出ないように、なんて言われていましたから、控え室の障子を開けて、ちょっとのぞき、私は怒られました。何にでも興味がある子でしたから、それも30を超えていた私でしたが、しきたりなんて全く眼中に無く、思うがままに興味本位で見てしまう。それは70を超えたこの歳の今も、恥ずかしながら変わっていません。
そのときの記憶では、本堂の階段は全く見えず、花の壁だけだったしか記憶がありません。それほど大きな葬儀でした。まさに、【デグチ天皇】、って怖がられもしたけど芸人に沿った江戸っ子らしいぶっきらぼうな温かさを持った伯父の葬儀でした。」 

京須は「下谷の寺」と書いているが、Suziさんの記述が正しいだろう。何といっても浅草の善照寺は出口家の菩提寺である。
TBSの大物プロデューサーとして演芸界に大きな影響力を持ち、退社後はデグチプロ代表として芸人のマネジメントに尽くした人だ。その葬儀がいかに盛大だったかは容易に想像できる。ばたばたした葬儀直前のエピソードも、いかにも芸能界らしい。 

「亡くなってからの話の方が面白いのでそれを書くことにします。
叔母が言うんです。
伯父も正式に結婚したのだけで3回。その間に何人もの女の人が入れ替わり立ち代り、でした。 まともな結婚式の写真は過去に於いてお送りした最初の奥さん(柳橋の芸者)とのだけじゃないでしょうか。いつも『こいつだ』と紹介したら、それは結婚していること、でした。
『デグチプロの事だけど・・・これはまあいいんだけど・・・即刻何かもらうのはやめて、しばらく待とうと思うのよ・・・』という、叔母も心得ていての提案でした。
『三亀松さんは亡くなったら、9人子供が出てきたのよ』と話が続きます。
父も『義姉さん、それもそうだなあ・・・と答えるしかなかったよ、あの時は・・・』と後になって父が教えてくれました。
それから6ヶ月くらい何の手続きもとらず待ちました。誰一人として、伯父の子だと名乗り出るとか、『この子が出口一雄の子です』と連れて現れるとかということはありませんでした。
父は冗談交じりに言いました。
『全く兄貴は何人女と遊んだか知れねえが、下手糞な鉄砲打ちだよなあ。一人も出て来ねえじゃねえか!』
母も、『あらまあ!伯父さんは当たりが悪かったんですねえ、ホホホ』と手を口に当てて笑ったのを覚えています。」 

出口の隠し子が現れるのを見越して、遺産の整理を待つ話。
出口夫人も腹が据わってるし、Suziさんのご両親の言も面白い。さばさばしていい。

出口一雄は明治40年4月8日に生まれ、昭和51年2月15日に亡くなった。お釈迦様と同じ日に生まれ、同じ日に死んだ。
それについて、Suziさんはこんなエピソードを紹介してくれた。

「住職の厚さん(親戚だからもうそう呼んでます)がこう言い出したんです。葬式の段取りの日だったと思うんです。だから葬式より何日か前の話です。いつも私達は親戚ということもあり、お寺の自宅のほうで話をします。
厚さんが言うんです。
『大きい兄さん(伯父の事)の事って、親戚だから気にもしなかったけどねえ、小さい兄さん(私の父)。驚きだよ。4月8日生まれだろ。(花祭りの日、つまりお釈迦様の誕生日と一緒)あのね、2月15日ってのは釈迦の涅槃の日だよ』
『本当か?あんな女遊びして勝手なことしてきた兄貴がか?お釈迦さんも計算違いの日にあっちに逝かせたもんだ』と父も驚いています。
私とて30の女です。
『伯父さんてサア、運がいいというか・・・お釈迦様でも手に余る、か?ちょっと羨ましかったんじゃないの、お釈迦さんも男だもん』
こんな話を住職と話しちゃう。
考えてみりゃ型破りな環境で私は育ちました。今思うととっても幸せな環境に育ったと思います。母は山の手の近衛兵の娘。父は浅草生まれのべらんめえ医者。叔母は商人の家に嫁ぎ、伯父は芸能関係。これだけ多くの生活社会を子供のときから見られて来たのは、ラッキーとしか言いようがありません。」

強面で無愛想な人柄から、彼は一部の人から「鬼の出口」と呼ばれたという。しかし、こうして彼の生涯を辿ってみると、実はその誕生日、命日にふさわしい「仏の出口」だったのではないかと思う。
 出口は若い才能を見出し世に出すことはしても、「干す」ことはしなかった。昨今の芸能プロダクションのあれやこれやを目にするにつけ、出口の仕事ぶりがいかに芸人たちに寄り添うものだったかが分かる。 

出口自身は自分のことについて何も世に残さず、あっさりと去って行った。ここで、ささやかではあるが、出口一雄の人となりを紹介できたことを誇りに思う。これも出口の姪Suziさんとの出会いのおかげである。彼女には貴重なお話に加え、写真等様々な資料をご提供いただいた。心より感謝します。ありがとうございました。

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ではSuziさんから。
「私からもdensuke様にそしてこれを読んでくださった方々に、心より感謝いたします。私もナントカ書きたかったからです。 でもあの世の伯父は言うでしょう。 『ばかやろう。言わねえでもイイコト言いがって』ってね。」

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