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2017年6月26日月曜日

井上井月とつげ義春

S君と伊那谷へ行くことになった時、私はひそかに心を躍らせた。それは、そこが井上井月ゆかりの地であったからだ。
私が井月の名を知ったのは、つげ義春の『蒸発』という漫画であった。初出は1986年12月の「COMIC ばく」。私はこれをリアルタイムで読んだ。 

この話は主人公「私」の友人、古書店店主の山井という男の紹介から始まる。
山井の経歴は、ただ伊那の高遠の出身らしいという以外は、詳しくは分からない。ふらりとこの町にやって来て、主人を亡くしたばかりの古書店の後家さんとできてしまい、ずるずるべったり、その店の主人となった。死んだ亭主の名前が「山井一郎」で、彼はその表札の名前に一本足して「山井二郎」を名乗った。
「どうせ私は帰るのだから・・・」「ほんのちょっとここに来ているだけですから」と時々口にする山井は、どうやら故郷に妻子を置いて蒸発して来たらしい。彼は「私」の「自分のすべてを捨てて蒸発するってのはなんだろう」という言葉に対し、「自分を『あってない』と観想するための具体的方法でしょう」と答える。
ある日、山井が「私」に『漂泊の俳人 井月全集』という本を貸してくれた。
井月と山井が二重写しに描かれていく。
井月は幕末から明治にかけての俳人。世に知られることなく、伊那谷で死んだ。
井月が伊那谷にやって来たのは安政5年、井月、36、7歳の頃。学識に優れ達筆で吟詠迅速神技の如し、相当の尊敬を受けたという。
伊那谷では定住せず、あちこちの俳諧趣味のある旦那衆の家を泊まり歩く。無類の酒好きですぐに泥酔し、脱糞失禁に及ぶことも少なくはなかった。
そのうちシラミはたかる、ヒゼンは病む、悪童どもからは「乞食井月」と馬鹿にされるようになった。
村人も彼を持て余すようになり、ある時、とうとう善光寺詣りに連れ出され、捨てられた。善光寺なら井月の故郷越後に近いので、そちらに帰るだろうと思われたのである。
しかし井月はまたふらりと伊那谷に舞い戻る。以前彼をもてなした旦那衆も、もうその頃には軒先で酒食を与え、家に上げようとはしなかった。
明治19年12月、枯田の中に糞まみれで倒れている井月が発見された。
あちこちたらい回しされた後、最も縁故の深かった俳友宅にかつぎこまれる。井月は納屋に寝かされ、そこで翌年の3月10日まで生き、死んだ。死ぬ間際、俳友たちは無理矢理彼に筆を握らせ辞世の句を書かせた。「何処やらに鶴の声聞くかすみかな」
ラストシーンで、「井月も山井も大馬鹿ものだよ・・・」と「私」はつぶやく。 

2012年には岩波文庫から『井月句集』が出た。参考編として「略伝」や「奇行逸話」などが付いていて、『蒸発』で使われたエピソードも多く含まれており、興味深い。
『芸術新潮』2014年1月号のインタビューでつげ義春は、「井月の句集が岩波文庫になる時、文章の依頼があったのですが、自分の井月像は俳人としての関心ではなく、あくまでも蒸発者の視点なので、それではまずいと思いお断りしてしまった。」と述べている。
つげ自身も蒸発志向があり、「蒸発旅日記」(『貧困旅行記』新潮文庫に収録)という文章も書いている。(これは名作。映画化もされた。)
つげ義春も今年で80歳か。妻を1999年に亡くし、一人で引きこもりの息子の面倒を見、目の具合もよくないという。もう新作は無理だろうな。でも、よく生き延びてくれた。落語を語らなくなった志ん生と同じで、もうそこにいてくれりゃいい。 

だらだらと新味のないことを書いたけど、もし、これで、ちょっとでも、つげ義春や井月を読んでみようか、と思ってくる人がいたら幸いです。

では伊那谷の風景を1枚。


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