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2020年3月17日火曜日

春風亭一柳の街


先月、長男の受験に付き合って金町に行った。
金町から亀有、綾瀬と歩いて電車に乗り、根岸をほっつき歩いた。そして、また金町に戻って歩く。歩数は2万歩を優に超えた。

金町には、ちょっとした思い入れがある。春風亭一柳が、暮らし死んだ街だからだ。
一柳については以前、「師匠の影法師」という記事を書いた。
春風亭一柳。1935年(昭和10年)東京生まれ。都立西高等学校中退。1956年(昭和31年)六代目三遊亭圓生に入門し、三遊亭好生を名乗る。1973年(昭和48年)真打昇進。1978年(昭和53年)圓生門下を離れ、春風亭一柳に改名。1981年(昭和56年)7月9日、自宅団地十階の非常階段から飛び降り自殺を遂げる。
一柳の唯一の著書『噺の咄の話のはなし』は、1980年(昭和55年)12月10日に初版第一刷が出た。私が持っているのは1981年(昭和56年)1月26日に出た初版第三刷である。
三遊亭圓生の死を「嬉しかった」と綴ることから、この本は始まる。尊敬する師からことごとく疎まれ、ないがしろにされた挙句、落語協会分裂騒動の際、石をもて追わるるごとく破門される。(この時一緒に破門されたのが、川柳川柳。破滅型に見えた川柳の方が長寿を保っている。)八代目林家正蔵のもとに身を寄せ再出発するが、芸に自信を失い、酒に溺れ、貧困にあえぐ。廃業を決意するも周囲の人に支えられ、三年間の禁酒を誓って再起を期す。
私は学生時代、わななきながら、むさぼるようにこの本を読んだ。「落語家になりたいなあ」という私の甘い夢に冷水をぶっかけられたような気がした。
「あとがき」の日付は昭和50年10月25日。どこかふっきれたような筆致だったが、その後半年ちょっとで一柳は自ら命を絶つことになる。その中で彼は「遺書のつもりで書いた」「この世にわずかなひっかき傷でも残して逝きたい」と言う。その言葉通りになったのが、ひどく悲しい。
落研同期の弥っ太くんはこの本を読んで「太宰治の『人間失格』みたいじゃのう」と言っていた。
春風亭一柳の死から、もう40年近くになる。彼があの本を書かなかったら、これほど強烈に記憶されてはいなかっただろう。

そんなことを思いながら、私は疲れた足を引きずって、なおも金町を歩き続けるのだった。









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