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2021年9月7日火曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち①

柳家小満ん著『べけんや』の中の「おかみさん」は、七代目橘家圓蔵の話をもとに書かれたという。それならば、圓蔵師匠(当ブログでは基本的に敬称を省略しているが、この方は私の大学時代の技術顧問、「師匠」なのです)の本を見れば、文楽の妻について詳しく書かれているかもしれない。そこで、物置から『てんてん人生』、本棚の奥から『聞書き七代目橘家圓蔵』を取り出して来た。

期待通りだった。『聞書き・・・』の方が詳細に書かれているので、そこから引用してみよう。

まずは、最初の妻おえんについて。著者の山口正二が師匠の話を基にまとめた文章を、以下に記す。


 最初のお神さんは大阪の紅梅亭(後の花月)でお茶子をしていた。文楽師匠は大正五年、七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)の所で翁家さん生で二ツ目になったが、東京で売れないので、大阪へ行った。この時に何くれとなく世話をしてくれたのが此のお茶子さんで、これが縁でいい仲になった。亭主は船乗りで留守勝ちだったから、紅梅亭で働いていたのだ。

 どこでどう知ったかはわからないが、二人のいる所へ亭主が来て、郵便貯金の通帳を前へ置くと、「これはこいつの為にわたしがこつこつ貯めた金だ。だから、これを持って、二人で東京へ行って、どうかこいつを幸せにしてやってくれ」と言った。

 東京の御徒町の長屋の二階を借りて、二人は新婚生活に入った。お神さんは立花亭へお茶子に出たが、文楽師が足を悪くした時には、車で通院できるような身分でもなかったので、病院まで背負って往復したりして、本当に良い世話女房だった。 


文楽の最初の妻について、もっともまとまった文章がこれではないか。

しかし、文楽はこの妻と3年ほどで別れてしまった。圓蔵師匠は次のように証言している。


《真打になって売れてくると、長屋の女房みたいなお神さんは鼻につくんだね。で、今度は文楽になるんで金が要る。丁度その時、芳町に金語楼さんを可愛がっていた年増芸者で菊弥ッてえのがいて、そこへみんなが寄った時に、その女が「宿屋をしている後家さんがいるんだけど、どうだろう」って師匠に話したんだ。つまり、丸勘のお神さんですよ。師匠は前のお神さんに手切れェ渡して、入り婿したわけ。手切れ金だって丸勘から出てるんでしょう。それからねェ、「これはどっかに書いておくれ」と師匠に言われたから話すけど、震災で困った時、その金を前のお神さんからまた借りたってンだから、師匠もいい役者だよ。最初のお神さんはそン時は洋食屋なんかしていたらしいですね》


文楽の『あばらかべっそん』には次のようなエピソードが紹介されている。

① 最初の妻は阿波の徳島の出身だった。彼女が用事で実家に帰った時、留守に文楽の女が次々とやって来る。とうとう隣の裁縫の先生に「いくら芸人とはいえ、留守にとっかえひっかえ知らない女がやって来ては、台所で働いているとは何事です」と怒られてしまった。

② 当時の親友、春風亭梅枝が文楽の家に遊びに来ると、おえんが行水をしていた。梅枝は連れて来た仲間に向かって、「ただでのぞいてはいけませんよ。入場料を頂きますよ」と言って切符を作り十銭ずつとってのぞかせた。文楽自身も十銭払ってのぞいた。

文楽がこの妻のことを語る時(それほど多くは語っていないが)、どこか青春の一コマを振り返って懐かしんでいるような感じがする。私には文楽の『厩火事』のお崎さんの中に、彼女が生きているように思えるのだ。

『聞書き・・・』の著者山口正二も「僅か四年に足らぬ縁だったが、文楽師にとっては一番良いお神さんだったのではなかろうか」と書いている。




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