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2018年11月2日金曜日

川崎駅西口から尻手駅へ

この前、平日の休みがあった。
生憎、妻が仕事だったので、ひとりで寄席に行くことにする。
せっかくだから、久しぶりに学生時代住んでいた川崎を歩いて来ようと思い立つ。

川崎駅の西口に出たのは10時過ぎ。ここから昔住んでいたアパートの辺りを歩いて、南武線の尻手駅まで行くつもり。

川崎駅西口に、もはや昔の面影はない。
南河原町銀座をぶらぶら奥へと進む。

お店も大分少なくなっちゃったなあ。

この蕎麦屋は学生の頃からあった。かつ丼をよく食べたよ。

小学校の前にあったこのお店は、文房具屋さんだったのでしょうな。

森永の牛乳屋さん。

懐かしのエンゼルマーク。

南河原町銀座が尽きたところで左に曲がる。「温泉通り」という通りらしい。ここを歩くのは初めてだ。

川崎温泉由来の碑。
この場所に、昭和22年、大黒湯という銭湯が開業。翌年温泉が発掘された。
平成5年に廃業ということは、私が学生の頃にはあったんだねえ。


そろそろアパートの方に向かおう。
アパートの近くにあったお豆腐屋さんの建物も今はない。跡地ではけっこう深く掘って基礎工事をしていたから、高層マンションでも建つのだろう。

この通りは市電が通っていたのか。


アパートがあった路地。
もちろん当時私が住んでいた建物は残っていない。

しかし、隣は当時のままだった。

私が学生時代通っていた銭湯。天然温泉だったんだ。
尻手駅へ。いつも利用していた歩道橋に上る。
毎度のことだが、私はこの歩道橋に上るたび、友川カズキの『歩道橋』という歌を思い出す。

秋晴れ。空気が澄んでいたので期待していたら・・・、

尻手駅の向こうにうっすらと富士山が見えた。

どうしてもここを撮ってしまう。

尻手駅。ほとんど昔のままだ。
駅前の小道も、あんまり変わんないなあ。
尻手駅から南武線に乗る。そろそろお昼。どこかで途中下車して昼食にしよう。

2018年11月1日木曜日

【雑談】文楽十八番 明烏③

文楽がこの「明烏」を教わったのは、三遊亭志う雀からだというのは定説になっている。
安藤鶴夫の「桂文楽十八番演目解説」でも、飯島友治の『古典落語 文楽集』の解説でもそうだが、暉峻康隆だけは違う。『CDブック 八代目桂文楽』の中で、彼は言う。
「私の親友であった八代目文楽がこの噺を習ったのは、まだ七代目翁家さん馬門でさん生と名のっていた大正時代、大阪の噺家で東西の噺を消化してレパートリーが多く、巧者とされた三代目三遊亭圓馬であった。浅草三筋町の圓馬に稽古をつけてもらっていると、当時の文楽はむやみに『エー、エー』という癖があったので、その都度師匠がガラスのおはじきをピシーリと投げつける。最初は七十余りもあったのが、一つもなくなるまでおはじきの稽古が続き、『明烏』もそうして仕込まれたという。(『落語芸談』)」
しかし、この説には大きな穴がある。文楽が旅の修行から帰り、七代目翁家さん馬門に入ってさん生と改名した大正5年、当時朝寝坊むらくだった三代目圓馬は、四代目橘家圓蔵との不和がもとで東京を引き払い、旅に出る。文楽が浅草三筋町の圓馬の家に稽古に通っていたのは、彼が前座で小莚といっていた頃。おはじきのエピソードは、文楽の自伝『あばらかべっそん』の中で、『牛ほめ』のけいこの場面に出てくるのだ。
『落語芸談』の中でも、文楽の口から「その夢楽(原文のまま、正しくは「むらく」)の少し前の立花家左近といった時代から、夢楽になったころですよ、私がオハジキでやられたのは。」と言っているのだから、このエピソードは明治末期でなければおかしい。(圓馬が左近からむらくを襲名したのが明治42年である。)

柳家小満んは『べけんや』で、「桂文楽の『明烏』は、若い頃からの十八番で、師匠がまだ翁家さん生といっていた二ツ目の頃に、志う雀という師匠から教わったそうだ。」と言っている。文楽と日常的に接している内弟子が言うのだから、文楽自身、そう言っていたと思って間違いはあるまい。さらに、その志う雀について、「こんなゴツゴツした手で、色が黒くて、渋い顔の爺さんで、それでいてじつに噺がうまくてね・・・」という文楽の言葉を紹介しているのだから、かなり具体的な証言と言える。やはり文楽の「明烏」は志う雀からのものであると、私も思う。
ただ、前述の『落語芸談』で文楽自身が、「夢楽のころの圓馬師匠は、羊かん一つたべるしぐさでも、どういう家の羊かんか、たべ分けてみせてくれるし、豆だって、枝豆、そら豆、甘納豆とたべ方が違うんですね。それがあたくしはできなくって、ピシーリとやられました。『明烏』なんかもそうしておそわりました。」とも言っているから、志う雀から仕入れた「明烏」を圓馬にも見せて指導を受けたということなのだろう。(ちなみに、仕草の稽古に関して『あばらかべっそん』では、一尺の物差しで手の甲を叩かれることになっているから、この「ピシーリ」はおはじきではないと思う。)

では、志う雀とはどのような人物なのだろうか。『古今東西落語家事典』から拾ってみる。
本名鈴木芳三郎。生没年不詳。安政7年1月に生まれ、大正期に没したらしい。初代三遊亭圓遊(ステテコの圓遊)門下で、はじめ遊楽。明治23、4年頃、師匠の前名である、志う雀に改名した。同43年、八代目司馬龍生を襲名するが、大正4年の名簿では三升家小勝門で三升亭志う雀を名乗っている。噺のスジはよかったが売れず、晩年は指物師を内職にしていたという。
実はこの志う雀、文楽の初高座に立ち会っているのである。『あばらかべっそん』の中に出てくる、文楽が小南に入門して、小莚の名前をもらった頃の話である。
神田の白梅という寄席で、橘寿という年寄の前座が来ず、急遽、寄席に出て3日目の小莚が高座に上がることになった。小莚は、素人時代に聞いてうろおぼえだった「道灌」をしどろもどろになりながらも何とかやり切る。高座を下りて意気消沈している小莚に、志う雀が「小僧さん、お前ははなしかになれるよ。一生けんめいにやんな」と言ってくれたという。

飯島友治は「師匠はこの噺を、当時すでに相当の年配だった三遊亭志う雀から稽古を受け、初めて板(高座)にかけたのは二ツ目のさん生時代であった。」と書いている。文楽がさん生を名乗ったのは大正5年から。翌年には翁家馬之助で真打に昇進しているから、さん生を名乗ったのは1年ほどである。
小満んの話と合わせれば、この大正5年に文楽は志う雀から「明烏」の稽古を受け、その年にはこの噺を高座にかけて、大いに売り出したことになる。むらくの圓馬はこの年に東京を離れているから、その前に三筋町で甘納豆の仕草を稽古されたということか。さん生(文楽)、志う雀、むらく(圓馬)の三人が揃う可能性は、かろうじて、ある。これまでの話を総合すると、文楽が「明烏」を仕入れたのは、この大正5年でしかあり得ない。
しかし、文楽の「明烏」は、それまでの演出から大きな改編を遂げている。文楽の新ネタへのアプローチの仕方を考えれば、ひとつの噺を覚えてそれが大当たりをとるまでに、1年もかからなかったとは考えにくい。
実は文楽は旅に出る前の小莚時代に二つ目に昇進している。噺が仕込まれたのが「二つ目の頃」といのであれば、旅に出る前だったと見るのが自然ではないかと、私は思うのだが、どうだろう。

2018年10月26日金曜日

【雑談】文楽十八番 「明烏」②

「明烏」は、新内の「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」の続編「明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)」という人情本から生まれた人情噺の発端を、一席の落語にしたものだという。
新内「明烏夢泡雪」は江戸時代に実際に起きた心中事件を題材にしている。ネットでは以下の二説がある。
①明和3年(1766年)6月3日、吉原玉屋の花魁吉野(三吉野トモ)と人形町の呉服商春日屋次男伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀付近)で入水して心中したというもの。
②明和6年(1769年)7月3日、浅草蔵前の札差伊勢屋の養子伊之助が吉原の遊女三芳野と三河島の田圃で心中したというもの。
女の方は「よしの」または「みよしの」、男の方は伊之助とほぼ同じであるし、内容からしても同じ事件だと思われる。ただ、日付と伊之助の家、心中場所が違っている。二通りの伝わり方をしたのか。ネットの方では①が優勢だが、いずれも出典が明記されておらず、どちらが正しいかは分からない。どなたかご教示ください。
これを鶴賀若狭掾が新内節に仕立て上げ、大当たりをとる。
主人公は吉原山名屋の花魁浦里と春日屋時次郎。二人は恋仲になり時次郎は親の金を持ち出し、借金をしてまで浦里のもとに通い詰める。しかしやがて首が回らなくなる。浦里の部屋に人目を忍んで居続けをしているとことを遣り手婆に見つかり、時次郎は店の若い衆に袋叩きに合って追い出され、浦里は店の主から雪の降り積もった庭に引きずり出されて折檻を受ける。時次郎と縁を切ることを強要されるが、浦里は頑なに拒み、止めに入った禿のみどりとともに庭の古木に縛られる。そこへ時次郎が現れ、用意していた短刀で縄を切り、三人で逃げようと塀を乗り越える。ひらりと飛び降りると、目が覚めた、という夢落ち。当時の心中もの禁止令に触れない巧妙な幕切れである。
人情本「明烏後正夢」は、安政4年(1857年)、為永春水と瀧亭鯉丈の合作。富士松魯中が新内にした。人情本の方は為永春水のデビュー作とのこと。塀から飛び降りた三人が本所にある時次郎の菩提寺で心中を図るが、法華経の功徳と名刀の力によって生き返るという話らしい。
落語「明烏」は主人公の時次郎、浦里をそのまま登場させ、二人の出会いを吉原の風俗をふんだんに紹介しながら描いていく。堅物で初心な時次郎が、翌朝、浦里にめろめろになってしまう落差が笑いを誘う。
元ネタはいずれも爛熟退廃的な江戸情緒色濃く匂う話である。ところが文楽の「明烏」は意外と新しい。
時次郎が源兵衛と太助に連れられて登楼する店には電灯がともる。時次郎の父親の小言には、「いくつになります? お前、十九ですよ。来年は二十歳、もうすぐ(徴兵)検査がくるんじゃないか。」(安藤鶴夫『落語鑑賞』より)とある。
東京で家庭配電が開始されたのが明治20年(1887年)、文楽が生まれた明治25年(1892年)には、東京で電灯一万灯祝賀行事が行われる。また明治22年(1889年)の徴兵令によって、男は全員満二十歳になったら検査を受け、三年の兵役に服すことが義務付けられた。
安藤鶴夫が『落語鑑賞』の「明烏」の項で、「吉原で写真見世ができた明治36年(1903年)以前の世界」と言っているので、明治20年代半ばから明治30年代半ばぐらいまでの時代設定ということになるか。
ちくま文庫『古典落語 文楽集』の中で、飯島友治は、時代を明治中期とした上で、時次郎の父、日向屋半兵衛について、「前身が蔵前の札差で、明治維新を転期に、日本橋田所町に問屋開業して大成功した金持ちの大地主」と書いている。文楽の噺からは、ここまで詳しいことは分からない。昔の速記にでもあったのだろうか。前述の「明烏夢泡雪」の基になった心中事件②の方、伊之助が浅草蔵前の札差の養子というのの名残なのだろうか。これまた、どなたかご教示いただければありがたい。

2018年10月23日火曜日

【雑談】文楽十八番 「明烏」①

落語の「明烏」といえば、八代目桂文楽の代名詞と言ってもいい、十八番中の十八番である。今回はその「明烏」について書いてみようと思う。

まずはマクラから。
しずしずと高座に現れた文楽は、深くお辞儀をしてお決まりの口上を述べた後、「弁慶と小町は馬鹿だなあ嬶(かかあ)」という川柳から語り出す。弁慶も小野小町も男女の営みを知らずに終わったとされる人物。夫婦の営みを終えた後の夫の、「こんないいことを知らなかったとは弁慶も小町も馬鹿だ」という感慨を詠んだものである。
「弁慶と小町は馬鹿だなあ、嬶。」と「弁慶と小町は馬鹿だ。なあ嬶。」と、二通りに読める。五七五に倣えば後者か。前者は夫ひとりの感慨であるのに対し、後者では側に横たわる妻の存在が濃厚に立ち上る。
私がこの川柳で思い出すのは、もうひとつ、吉行淳之介の小説である。昔、角川文庫から出ていた『鼠小僧次郎吉』という本の中に、表題作とともに「小野小町」という短編が収められていた。小町は絶世の美女でありながら、言い寄る男たちの求婚をすべて断ったことからあの川柳が生まれたのであるが、その理由として吉行は一つの俗説を挙げる。
「小町針」というのがある。これは糸を通す穴がない針のことで、小野小町も同様の身体上の欠陥があったというのだ。あの「百夜通い」の深草の少将が、小町の身体の秘密を知ってしまうのだが・・・、という話になるんじゃなかったかな。現物を失くしてしまったので、はっきりしたことは分からない。
「童謡」という短編を教科書で読んで吉行に興味を持ち、初めて買った彼の文庫本だった。高校生には刺激が強かったなあ。
川柳の後には、食わず嫌いの牛鍋の小咄を振る。これがまた、本当に旨そうで楽しい。

昭和43年(1968年)3月14日、国立小劇場で第五次落語研究会の第1回公演があり、文楽は当然のごとく「明烏」を出した。その時にはこんな小咄を冒頭に振った。
「昔、両国橋を渡りまして左ッ側に百本杭てえのがございました。ご年配のお客様はご存知でしょうけれども、あそこで釣りをしている人が随分ございました。
『(切迫した様子で)ちょっと伺いますがな、十七、八の娘がここに来やしませんか?島田に結っているんですがな』
『(釣り人、竿を見ながら)来た来た、来たね、あー来た来た』
『来ましたか?』
『あー逃げた』」
一息置いて、何事もなかったかのように「弁慶と小町は・・・」と続ける文楽に、客席は柔らかな笑いで応えた。(その映像を撮影していた川戸貞吉は、この小咄を聴いたのは「後にも先きにもこのときだけ」だと言っている。)
この時客席には、評論家の山本益博がいた。早稲田大学に入学の決まっていた山本は、叔母から入学祝に歌舞伎のチケットをもらい、国立劇場に行った。しかし、小劇場の「落語研究会」看板を見て、断然こっちを見たくなった。チケットは完売していたものの、窓口で必死で懇願している山本の姿を見て、東京放送の関係者が席を譲ってくれる。山本はその時の桂文楽の「いわゆる‟ご機嫌“な高座だが顔と眼は醒めている」「落語家の‟芸”というものを意識させた」高座に感動。以来、文楽を追いかけ、大学の卒業論文も「桂文楽」を選ぶ。(後にこの論文は『さよなら名人芸―桂文楽の世界』として上梓された。)
山本はCBSソニーから出たLPレコード『桂文楽全集』の監修もしたが、「明烏」は、この第1回落語研究会の録音を採用している。この高座は、山本にとって本当に特別なものだったのだなと思う。

ちなみに百本杭については、芥川龍之介が「大川の水」(岩波文庫『芥川竜之介随筆集』に収録)という随筆に書いている。
芥川は明治25年(1892年)3月1日生まれ、文楽は同年11月3日の生まれだ。二人とも同じ東京の空気を吸っている。芥川の「大川の水」の文章に、私は文楽の小咄と同じ匂いを感じた。

2018年10月21日日曜日

秋晴れの週末

昨日は妻が仕事で長男が土曜講座、次男は文化祭。午前中は家にいる。
お昼は自分で作る。スパゲティを茹でている間、『ロッシーニ序曲集』の「泥棒かささぎ」をかける。400円で買ってきたCD。せっかくだから、村上春樹の小説みたいにやってみたいじゃないの。演奏はクラウディオ・アバド指揮するロンドン交響楽団ではなく、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のフィルハーモニア管弦楽団。もちろん曲が最高潮に達しても、知らない女の人から電話なんぞはかかってこなかった。
玉ねぎとベーコンを炒め、茹でたスパゲティをぶちこみ、醤油と鰹節、マヨネーズで絡める。ここで椎名誠になってしまうのが、私なんだよな。
でもまあ、そこそこに旨し。茹で加減は「泥棒かささぎ」1曲分でばっちり。さすが村上春樹。



午後からは地区のホールへ次男の文化祭の合唱コンクールを見に行く。仕事を終えた妻も合流する。よく頑張りました。
夕食は、今シーズンの初おでんで燗酒。
アイリッシュウィスキーを飲む。

今日は朝から秋晴れ。
午前中、散歩に出る。霞ケ浦の堤防に出て、結局、1時間半ぐらい歩く。
コスモスが満開。釣り人も多い。






お昼は焼きそば。
午後から次男の友だちが遊びに来る。
夕方は休日のお楽しみ、ハートランドビールを飲む。
夕食は、刺身、カキフライ、揚げ出し豆腐、けんちん汁で燗酒。
今夜は十三夜。きれいな月夜だった。



2018年10月18日木曜日

『牛褒め』の牛乳屋のおじさん

私の落研時代の持ちネタで、『牛褒め』という噺がある。与太郎がお父つぁんに教えられて、おじさんの家に、新築した家と牛を褒めに行くというお話である。まあそこは与太郎のこと、ドタバタになっていくのだけれど。
普通の型では、佐兵衛おじさんの家に牛もいるという設定なのだが、私が覚えた十代目桂文治の型では、牛の方は牛乳屋のおじさんの所に褒めに行くことになっている。与太郎が住んでいたと思われる下町に、果たして牛を飼っている牛乳屋などあるのだろうか、と私もいささか疑問に思っていた。
ふと芥川龍之介の生家が牛乳屋だったことを思い出し、ちょっと調べてみたら、なかなかに面白かった。(以下は大月牛乳のHPから要約し引用した。)

我が国で牛乳を商品化したのは明治になってから。渋沢栄一が発起人となって、明治13年、箱根の仙石原に耕牧舎という牧場を開く。これは三井財閥も資本参加した一大事業であった。しかし、夏の避暑時期を過ぎれば需要は落ち、しかも冬場には牧草が不足するなど、単一拠点による経営は難しかった。
そこで耕牧舎は東京に進出する。明治15年に下谷区中根岸に第二牧場を設け、翌年には京橋区入船町にも支舎を増設した。
そして、その二つの東京支舎の管理・経営を任されたのが、芥川龍之介の実父、新原敏三である。彼は商才があり、店を大いに繁盛させた。龍之介は入船町で生まれたが、間もなく母親が病み、母の実家である本所小泉町の芥川家に引き取られた。
その後、東京の都市化や法規制進行に伴い牧場維持が困難になって、明治末期には東京市内での牛乳生産は著しく衰退。大正初期には新宿にあった牧場も臭気などを理由に閉鎖せざるを得なくなったという。

そうか、明治時代には根岸や入船に牧場があったのか。だとすれば、与太郎が行っても不思議はない。もしかしたら「牛乳屋のおじさん」とは、芥川龍之介の実父だったかもしれない、と考えると楽しくなる。
『牛褒め』から思わぬ方向に話が飛んだ。掘れば掘るほど何か出てくる。面白いもんだな。




2018年10月14日日曜日

週末の日記

昨日の日記。
朝、パン、牛乳、チキンナゲット、スクランブルエッグ。
妻は仕事。子どもたちと図書館に行く。『三島由紀夫―ある評伝』と『鹿島神宮の研究』を借りる。
昼は子どもたちが作ったナポリタン。
午後は三島の評伝を読む。
夕食は、ほっけ、もつ煮込みで燗酒。
寝しなにアイリッシュウィスキーを飲む。

今日の日記。
朝、御飯、味噌汁、ほっけ、塩辛。
昼は明星ラーメン、チャルメラ。
午後は長男の友達が遊びに来る。
ちょっと外出。コーヒー豆と本を買う。『枝野幸男、魂の3時間大演説』。
『三島由紀夫―ある評伝』読了。
妻子を連れて、鉾田の花火を見に行く。1時間、たっぷり見る。
帰りにコンビニで夕食を買い、家で食べる。
ニラレバ炒め、ほていの焼き鳥、鳥五目おにぎりでビール、酒。
寒い週末でした。

以下は鉾田の花火。