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2018年10月26日金曜日

【雑談】文楽十八番 「明烏」②

「明烏」は、新内の「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)」の続編「明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)」という人情本から生まれた人情噺の発端を、一席の落語にしたものだという。
新内「明烏夢泡雪」は江戸時代に実際に起きた心中事件を題材にしている。ネットでは以下の二説がある。
①明和3年(1766年)6月3日、吉原玉屋の花魁吉野(三吉野トモ)と人形町の呉服商春日屋次男伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀付近)で入水して心中したというもの。
②明和6年(1769年)7月3日、浅草蔵前の札差伊勢屋の養子伊之助が吉原の遊女三芳野と三河島の田圃で心中したというもの。
女の方は「よしの」または「みよしの」、男の方は伊之助とほぼ同じであるし、内容からしても同じ事件だと思われる。ただ、日付と伊之助の家、心中場所が違っている。二通りの伝わり方をしたのか。ネットの方では①が優勢だが、いずれも出典が明記されておらず、どちらが正しいかは分からない。どなたかご教示ください。
これを鶴賀若狭掾が新内節に仕立て上げ、大当たりをとる。
主人公は吉原山名屋の花魁浦里と春日屋時次郎。二人は恋仲になり時次郎は親の金を持ち出し、借金をしてまで浦里のもとに通い詰める。しかしやがて首が回らなくなる。浦里の部屋に人目を忍んで居続けをしているとことを遣り手婆に見つかり、時次郎は店の若い衆に袋叩きに合って追い出され、浦里は店の主から雪の降り積もった庭に引きずり出されて折檻を受ける。時次郎と縁を切ることを強要されるが、浦里は頑なに拒み、止めに入った禿のみどりとともに庭の古木に縛られる。そこへ時次郎が現れ、用意していた短刀で縄を切り、三人で逃げようと塀を乗り越える。ひらりと飛び降りると、目が覚めた、という夢落ち。当時の心中もの禁止令に触れない巧妙な幕切れである。
人情本「明烏後正夢」は、安政4年(1857年)、為永春水と瀧亭鯉丈の合作。富士松魯中が新内にした。人情本の方は為永春水のデビュー作とのこと。塀から飛び降りた三人が本所にある時次郎の菩提寺で心中を図るが、法華経の功徳と名刀の力によって生き返るという話らしい。
落語「明烏」は主人公の時次郎、浦里をそのまま登場させ、二人の出会いを吉原の風俗をふんだんに紹介しながら描いていく。堅物で初心な時次郎が、翌朝、浦里にめろめろになってしまう落差が笑いを誘う。
元ネタはいずれも爛熟退廃的な江戸情緒色濃く匂う話である。ところが文楽の「明烏」は意外と新しい。
時次郎が源兵衛と太助に連れられて登楼する店には電灯がともる。時次郎の父親の小言には、「いくつになります? お前、十九ですよ。来年は二十歳、もうすぐ(徴兵)検査がくるんじゃないか。」(安藤鶴夫『落語鑑賞』より)とある。
東京で家庭配電が開始されたのが明治20年(1887年)、文楽が生まれた明治25年(1892年)には、東京で電灯一万灯祝賀行事が行われる。また明治22年(1889年)の徴兵令によって、男は全員満二十歳になったら検査を受け、三年の兵役に服すことが義務付けられた。
安藤鶴夫が『落語鑑賞』の「明烏」の項で、「吉原で写真見世ができた明治36年(1903年)以前の世界」と言っているので、明治20年代半ばから明治30年代半ばぐらいまでの時代設定ということになるか。
ちくま文庫『古典落語 文楽集』の中で、飯島友治は、時代を明治中期とした上で、時次郎の父、日向屋半兵衛について、「前身が蔵前の札差で、明治維新を転期に、日本橋田所町に問屋開業して大成功した金持ちの大地主」と書いている。文楽の噺からは、ここまで詳しいことは分からない。昔の速記にでもあったのだろうか。前述の「明烏夢泡雪」の基になった心中事件②の方、伊之助が浅草蔵前の札差の養子というのの名残なのだろうか。これまた、どなたかご教示いただければありがたい。

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