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2016年1月10日日曜日

笠間稲荷東門の奉納額 訂正

先日、笠間稲荷へ行った。
お参りを済ませ、以前記事にした東門の睦会奉納額を見る。
ありがたいことに、お札の回収所が移動してあったので、その全容をしっかり見ることができた。
それがこちら。


「は組」が中心となり、睦会が参加した形らしい。
睦会は、下から2段目の、左右1列ずつを占めていて、芸人と寄席の名前が見える。

奉納は大正7年(1917年)5月。前の記事で大正7年から9年だろうという見立ては正しかった。
東京寄席演芸株式会社が設立され、芸人のギャラが月給制になったのに反対し、落語睦会が発足したのが、その前年の8月である。だから、この奉納札には、睦会草創期のメンバーがずらりと名を連ねている。
ちなみに八代目桂文楽は、大正6年9月、翁家馬之助と改名し、真打に昇進したばかり。その名前は、ここには見られない。ここに名前が載るには、まだ若かったというべきか。

では、アップで載せてみる。


2015年12月3日の記事にあるので、個々についての詳しい解説はそちらを見て欲しい。

前回「柳亭痴楽」と読んでしまったのは、実は「伊藤痴遊」の間違いだった。
伊藤痴遊は安政3年、横浜に生まれた。星亨のもとで政治活動の手段として講談を読んでいるうちにそれが本業となり、政治講談という1ジャンルを確立させる。一方、東京府議会議員、国会議員としても活躍した。五代目左楽はこの人の弟子だった。左楽の政治的手腕は、おそらく痴遊のもとで育まれたのだろう。昭和13年72歳で没した。

訂正をもう1つ。
「金原亭馬生」は、実は「おもちゃ屋の馬生」ではなく、後の4代目古今亭志ん生となる「鶴本の馬生」だった。前回、私は、文楽の自伝『あばらかべっそん』の中で、鶴本が会社派に名を連ねていたので、奉納札の馬生を「おもちゃ屋」としたのだが、「おもちゃ屋の馬生」が大阪から戻ったのが大正8、9年頃ということが分かった。まず、この奉納札の馬生は、「鶴本」で間違いない。とすれば、文楽が若手真打の頃、付き合っていた芸者を鶴本にとられたというエピソードも、鶴本が早い段階で睦会に移ったと考えると、辻褄が合う。

6代目金原亭馬生(後の4代目古今亭志ん生)は、明治10年の生まれ。2代目古今亭今輔に入門。今輔没後は兄弟子の5代目雷門助六門下となった。明治43年、古今亭志ん馬で真打。3代目蝶花楼馬楽、初代柳家小せんとともに、落語研究会の若手メンバーとして注目された。大正元年5代目(自称)金原亭馬生を襲名。しかし大阪にすでに「おもちゃ屋の馬生」がおり(だから正確には6代目である)、名古屋から西では名乗らないという条件付きだった。美声で歌い調子の高座は、「これぞ江戸前」と人気を集め、若手落語家の憧れの存在でもあった。(文楽は、付き合っていた芸者に、鶴本の素晴らしさをしきりに語り、それが彼女を鶴本に走らせる原因となった。3代目春風亭柳好は独特の歌い調子で人気を博したが、それは鶴本の口調を参考にしたものだったという。)
大正13年10月、4代目古今亭志ん生を襲名するも、同15年1月、胃がんのため50歳で亡くなった。手術の際、麻酔をかけられ確認のために数を数えるように医者に言われ、落語『ずっこけ』を喋りながら意識を失っていったという逸話が残る。

ちなみに5代目志ん生は、2代目三遊亭小圓朝門から、この4代目門下に移り、最後は初代柳家三語楼の傘下に入る。4代目志ん生門下であったことから5代目を襲名することができたといっていい。この額が奉納されたのが、大正7年だから、5代目志ん生も馬生門下として睦会にいたことになるのか。文楽・志ん生の友情もこの辺りから芽生えたのかもしれない。

寄席では、四谷の喜よしの名前も見える。
こういうのを見ると、100年前が今と地続きであることが、ありありと分かって楽しい。

笠間稲荷は初詣バージョンでした。



で、これが東門全景。立派だよねえ。


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