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2016年1月29日金曜日

出口一雄 桂文楽との別れ

文楽・志ん生の最後の会談の2日後、昭和46年11月2日、文楽は駿河台の日大附属病院に入院する。少量の吐血を見たため、検査のためにというのがその理由だった。
経過もよく、12月18日に退院する日取りを決めた。前夫人である寿江の3回忌を済ませ、現夫人梅子と彼女との間に生まれた長男益太郎も籍に入れた。益太郎も嫁を迎え、退院した暁には、皆で揃って水入らず、快気祝いをしようという話になっていたという。
12月10日に文楽は人間ドックに入り健康診断を受けた。しかし、11日の夜、容体は急変する。その時、主治医西野入尚一は、医局の旅行で熱海にいた。知らせを受けて東京に戻ったのは12日の朝。その日は日曜日で人も手薄だった。西野入は器具をかき集め、懸命に処置したが、大量の吐血が繰り返される。そして、午前9時20分、八代目桂文楽はとうとう帰らぬ人となった。
川戸貞吉との対談で、西野入は「時間が全然足りなかった。もし、スムーズにやれたら、100%とは言わないけれど、とにかくあんなに急には逝かなかったろう。何日かはもたせられたはずだ」と悔やむ。
京須偕充がネットに発表している「落語みちの駅」によると、出口一雄は11日の夜、病院に駆け付け、まだ意識がはっきりしていた文楽の枕辺から離れることなく、翌日の臨終に立ち会ったという。だから、後に出口は文楽最後の日付を「12月11日」と言い続けた。「駆け付けた11日の深夜から何時間か出口一雄の心の時計は停止していた」と京須は書く。
退院する予定だった12月18日、浅草東本願寺において、落語協会葬を兼て告別式が執り行われた。喪主は長男益太郎、葬儀委員長は、当時の落語協会会長六代目三遊亭圓生だった。圓生は弔辞で、「戦後、人心の動揺、人情、生活と、依然とは移り変わり行く世相で、勿論落語界も、世間のあおりを食い、動揺したその中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我れ人とともに時流に押し流されやすい時に、貴方は少しもゆるがなかった。」と述べ、「それが立派な芸であれば客はよろこんでくれるのだ、これでいけるのだ」と自分を含め人々に勇気を与えてくれた、と感謝した。実際には反りが合わなかったであろう二人だが、これは圓生の正直な気持ちなのだと思う。
告別式の前日、黒門町の自宅近くの黒門会館で通夜が営まれた。この席で、出口一雄は大西信行に、文楽最後の高座の様子を語ったという。『落語無頼語録』から引用する。 

「とても見ちゃいられなかった―」
  黒門会館のいちばん奥でコップの酒を顔をしかめて飲みながら出口マネージャーが言うのを、そうだろうな、さぞせつないことだったろうとぼくはうなずいていた。まだラジオ東京といっていたころのTBSで、文楽たちと契約を結び、民放の落語専属制度を確立させたのが出口マネージャーだった。定年でTBSを辞めてプロダクションを始めてからも、いまの世の親子との間ではとても見られぬこまやかな情愛で文楽の面倒を見続けて来た人だったから、いまもし文楽が命を終えていなかったら出口マネージャーの方がせつなさのあまり死んでしまったかもしれないと思った。
 (中略)
  「三代目になっちゃったよ・・・」  と、言った時に、我慢しきれずに泣いたのは文楽ではない。出口マネージャーだった。文楽自身は涙ひとつ人には見せていなかったのである。
  いつか自分が三代目小さんの悲惨さを味わうだろう日のあることを、文楽はすでに予知していたのではなかったか― 

この場面で大西は、「文楽は自殺をしたのではなかったか」という直感に襲われる。
このスリリングな展開は、どうか『落語無頼語録』中の「桂文楽の死」をお読みいただきたい。 

京須は『みんな芸の虫』に収められた「出口一雄 鬼の眼に涙」で、出口が文楽の最期について語る場面を、次のように書いている。場所は新富町の一角にある小さな洋食屋。出口はここでコロッケやカキフライをつつきながら、コップ酒を飲むのを好んだ。
以前にも載せた文章だが、再度引用してみる。

「黒門町の最期はかわいそうだった・・・。病院のベッドで血を吐いてな・・・」
  出口さんはプイと横を向いた。見られまいとしたのだろうが、涙は隠しようがなかった。小さなテーブルの差し向かいで、出口さんは老眼鏡を外していたから、大粒の涙がとめどなく頬を伝うのが見えた。
 「あれだけの名人だったんだ。あれだけいい噺家で、あんな品のいい綺麗な芸だった・・・。だから、せめて死ぬ時は・・・、高座であんなことになっただけに、せめて逝く時だけは、綺麗事にな・・・、わかるだろ、綺麗に往くところへ往かしてやりたかった。それが・・・。くやしいけれど、思うようにゃアいかねえ」 

文楽の死後、出口は酒を飲むと泣くようになる。これは出口を知る、誰もが言うことであった。
Suziさんも、「伯父は、文楽さん亡き後は『黒門町』って言葉が出てきたらもう泣き、って感じ、本当にガクーっときていました。父も『兄貴も涙もろくなったなあ』と言っていました」と証言している。

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