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2016年2月17日水曜日

出口一雄、交通事故に遭う

出口一雄と京須偕充が出会った昭和48年春、出口は既に昼間も酒を飲むようになっていた。
三遊亭圓生は京須との雑談の中で、
「どうもあの出口てェものは、以前はまことにテキパキと切れる男でしたが、この数年少々変わりました。交通事故がいけなかったのかな」
と前置きしながら、
「何年か前になりますかねえ、たしか神田の須田町のあたりだったと思いました。どういう事故か、あたくしはよく知らないが、頭を打ったとかで、一時は危ぶまれてあたくしどもも随分心配しました。まア、いい按配に治って仕事に戻ったんですが、その頃でしょうかねえ、昼間も飲むという話を聞くようになったのは。やはりどこか具合が悪くて酒で紛らそうとしているのかも知れませんねえ」
と語ったという。(圓生の台詞は、京須偕充著『みんな芸の虫』中「鬼の眼にも涙」から引用した) 

この交通事故について、Suziさんに訊いてみたら、こんな答えが返ってきた。 

「帰宅するのでタクシーに乗っていたら(もう夜中近く)、そのタクシーが交通事故に遭った。(運転手が悪いのではなく相手が横からものすごい勢いで当たってきた)どういう訳か運悪く伯父の座ってた側のドアが開いてしまい投げ出された。これも運悪く、頭のてっぺんを歩道の縁石にパッカーーっとぶっつけた。飲んでいるから本人はビックリもしなかったらしいけど、ひどくぶつけ、出血多く一時は危ない!!ってな状態でICU入りでしたが、助かったんです。伯母は驚いたーーー!、って言ってましたよ。(事故の時間帯とどんな状況だったか―縁石に当たった云々など―は事実です)
私も病院に行きましたが、包帯をぐるぐる頭に巻いていました。『わー、凄い』と思わず声を出しましたね。
芸人さんからの花束のお見舞いがメチャメチャに多く、香りと花粉でくしゃみが出ると圧がかかって出血が止まらないからと、医師から花束禁止令が出されたんです。そこで、カードだけは残して花束は他の病室行き。何をやっても何が起きても落語の世界です。
カードと言ったって日本はカードを書くなんてカッコイイカードはないし、ましてやその当時の落語家さんはそんなことには無縁の世界の人たち。花束に棒に刺さった小さな宛名書きの札がくっついてくるだけですからねえ。その紙っ切れがうず高く窓際に積まれていて、なんとも殺風景な病室でした。
そしてカード(?)を残した理由は、後になって伯母が礼状やお返しをする人たちへの記録でどうしても必要だったんです。
この頃は確か伯母の妹の御主人の水野さんが秘書をやっていたんじゃないかな、と記憶しています。」 

その後、出口の様子がどう変わったかは詳しくは分からない。仕事仲間からの印象では、事故からの復帰後、昼間でも酒を飲むようになったということらしい。(私は、桂文楽の死もそこに大きな影響を与えていると思うのだが) 

Suziさんの証言によると、やはり出口が昼酒をやるようになったのは事故後のことらしい。
さらに彼女はこう語る。 

「私の勝手な想像ですが、文楽師匠が亡くなったのが一番の原因だと思っています。それがたまたま事故の頃と重なり、事故の後遺症(首が思うように動かなくなったという)もあり、だと思います。人のバイオリズムってツキの良いときはいくらでも良い風が吹き、良くない時は良くない激しい嵐の風が吹く、のではないでしょうか。伯父は寂しくて仕方なかったのではないかと思いますね。私の父もそんなことを言っていました。
そしてもう一つ、事故後は急にお酒に弱くなったのも事実です。すぐに酔ってしまうんです。足元もふらつきが早くなりました。年齢と心の不安定、そんな要因が全て重なったのだと思います。姪の私と何気ない話をしていても少量のお酒で酔いの回るのが見えましたし、文楽さんが亡くなった後は急加速で涙もろくなりましたね。」 

この事故が、その後の昼酒の件も含め、結果的に出口の寿命を縮めることになったのだろう。
内海桂子は「出口さんは交通事故が元でお亡くなりになってしまいました。」と新聞社の取材に答えている。

内海桂子の記事。
Suziさん提供。

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